まず、グアム島。
私も4回ほど行ったことがあります。
その場所が、太平洋の激戦地であったことを知ったのは、その後のことでした。そして、その激戦地での守備隊長が、大村市三浦地区出身の杉本豊(すぎもとゆたか)大佐であったのも。英霊となり、靖国神社に祀(まつ)られた杉本豊(すぎもとゆたか)大佐は、旧制大村中学卒業生で、わたくしたちの大先輩です。
昭和19(1944)年7月25日、杉本大佐の指揮によって米軍に攻撃を開始、明石市(ハガニア)方面の敵中に突入しましたが、戦闘は混戦となり、26日、杉本大佐は戦死されました。
旧制大村中学出身の先輩だった杉本豊大佐は、ご実家のある三浦地区から久原地区の大村高校まで、雨の日も、風 の日も、台風の日も、そして雪の日も、毎日徒歩で通学し(往復15キロ以上)、無遅刻・無欠席だったエピソードが残っています。昭和初期の、この記録は、平成の現在も破られていません(往復15キロ以上の徒歩通学で無遅刻無欠席)。
杉本先輩の経歴は、三浦小学校→(旧制)大村中学(大村高校の前身)→海軍兵学校(防衛大学校の前身)→帝国海軍→グァム島守備隊長。
昭和19年(1944)の記録より
7月25日
海軍第54警備隊は、杉本大佐の指揮によって攻撃を開始、明石市(現、ハガニア)方面の敵中に突入したが、
戦闘は混戦となり、26日払暁(ふつぎょう=夜明け前のあかつきのころ)までに杉本大佐以下大半が戦死。
次にサイパン島。
大村高校の前身・旧制大村中学で、杉本先輩と同期で、そして同期で海軍兵学校入学した、近藤三郎(こんどうさぶろう)少将。
慶洋丸(けいようまる)▲
近藤三郎少将は、サイパン島・慶洋丸(けいようまる)の指揮官でしたが、昭和19(1944)年6月12日、アメリカ軍第58機動部隊艦載機による空爆によりサイパンで、沈没、戦死されました。
当時の記録はこちらに 第4611船団(写真あり)
日本のために戦った先人があるから、今の日本があるのです。
上京した時に靖国神社、地元なら、護国神社、忠霊塔、そして大村神社におまいりしたことはありますか?
関連
サイパンでの中国人のいやがらせ
日本国旗の盗難、落書き…サイパンの慰霊関連施設で相次ぐ嫌がらせ 中国人客急増「手がつけられず」 https://t.co/vtZ743JMlm pic.twitter.com/0pZ4QCh6bw
— 産経ニュース (@Sankei_news) 2015, 11月 29