ラバウルはどこなのか?↑↓

大村高校の前身・旧制大村中学生の日記より:昭和19(1944)年、当時15才、中学4年(旧制中学は5年制)の話題にもでてきていたラバウル。
ラバウル

戦中の在校生日記1から続きです:
マンガ+アニメのゲゲゲの鬼太郎原作者「水木しげる」氏もラバウルに配属され、当時のことがマンガによって解説されています。

本の裏表紙↓

「ラバウル」といっても、今は名前が知られていませんが、当時は、15才の大村の先輩の会話にも、普通にでてきていたのですね。
ウィキペデイアによれば、大要塞として日本軍が築城し、第二次大戦中は、連合軍の手に落ちないまま(日本軍が死守した)8月15日をむかえ、戦争が終わったようです。9月6日に降伏文書に調印。連合軍に負けず、日本軍が守り抜いた要塞(ようさい)だったんですね。
wikipediaより
日本軍の占領
第二次世界大戦中の1942年1月23日には、オーストラリア軍とイギリス軍と戦った末に日本軍が占領し、1942年11月20日着任した今村均陸軍大将などの指揮によって、東南方面への一大拠点が築かれる。ラバウル航空隊の基地があり、連合軍側からは「ラバウル要塞」と呼ばれた。日本軍の占領後は、陸海軍合わせて9万余の大軍が配置された。日本軍は豊富な兵力と自給自足体制による食料の確保、そして堅固な要塞を築き上げていた。なお、イギリス軍やオーストラリア軍、アメリカ軍など連合軍が1943年の夏以降に日本に対し反攻に出た時、ラバウルは補給線を切断され後方に取り残されている(飛び石作戦)。
その後も駐留していた日本軍は度重なる連合国軍による攻撃に耐えつつ、兵力を温存し洞窟陣地に篭もり武器を自作するなどし、食料や日用品の自給自足体制まで整え「籠城」を行った。当時南東方面艦隊参謀長であった草鹿龍之介は、仮に連合国軍が大兵力で攻め寄せてきたとしても10万以上の大出血を強いたであろうと語っている。
これをみた連合軍は、反攻にあたり頑強な抵抗が予想されるラバウルを占領せず包囲するにとどめた結果、1945年8月の終戦まで日本が占領し、日本軍のオーストラリアへの空襲などに使われた。
1945年9月6日、今村均大将と草鹿任一中将が、ラバウルに停泊したオーストラリア軍艦艇に赴き降伏文書に調印。同年9月10日、オーストラリア軍がラバウルに進駐した。その後、ラバウルには連合国側の手で収容所が建設された。
ほか、愛媛県出身で、戦後は上智大学教授だった故・金口儀明先生(英語)も戦中は、ラバウルに配属されていました。授業で、ラバウル小唄を披露されたことがありました。
「♪さらばラバウルよ、また来るまでは〜♫」
現地に今も残る「ラバウル小唄」:歌は15秒より
日本軍の影響力、いまも残っているんですね。
インドネシア人によるラバウル小唄
戦中映像によるラバウル小唄
現代風のラバウル小唄
戦中の在校生日記3へ続きます
