長崎県が県全体に押しつける「長崎っ子」というものに、違和感がある理由を書きます。
まず、教育では「長崎」というブランドは最悪だということ。長崎なんかと一緒にされたくない、大村を勝手に「長崎っ子」なんて呼ぶなよという気持ちがあります。
伝統・文化・歴史を誇る「大村っ子」を、問題が多くウソの歴史で塗り固めた自己満足ばかりの「長崎っ子」なんて、呼んでほしくない。大村の歴史を何も知らない長崎県は、大村の価値を下げないでほしい。
凶悪少年犯罪が、全国的に見て多く発生する長崎市。少年どころか、教育長自身が、新聞沙汰の問題をおこす長崎市。
次に、歴史的にたいしたことがない長崎市。
大村では、新幹線駅建設工事の場所から、弥生時代の遺跡が多数出土していますし、弥生時代のみならず、飛鳥時代・奈良時代の遺跡も多数出土しています。
実際、大村では飢饉もおきず、大災害もなく、気候が良い扇状地で水・食料が得やすく、昔から、同じ場所に人が住み続けている事実があります。つまり、大村の驚くべきところは、古代遺跡の埋葬者と現在の大村人が同じであることです(継続している)。
長崎市は、古代の日本の歴史につながっていません。長崎市の住民も、大村純忠 公が長崎港を開港して以来、人が集まった寄せ集めの土地です。
ご存じのように、古代の神話にも、現在の大村市役所がある「玖島」の地名が登場するなど(景行天皇が名付けた)、大村は継続性を物語っていますし、大村で最も古い神社である晃天宮など、長崎市の諏訪神社より600年ほど前から存在し、継続しています。
さて、福岡県、佐賀県、熊本県、鹿児島県なら、県全体を一つにまとめた呼称を用いるのに、うまくいくのですが、長崎県がうまくいかないのには理由があります。長崎県の教育関係者は、長崎県の歴史を知らないのでしょう。
福岡は黒田藩、佐賀は鍋島藩、熊本は熊本藩、そして鹿児島は薩摩藩という大きな藩が、江戸時代以前からそれぞれの領地を治めてきました。
現在の福岡市、佐賀市、熊本市、そして鹿児島市が藩の中心で、徳川が公布した法令以外の立法・司法・行政権を、それぞれの藩が持っていました。その場所が、明治以降それぞれの県庁所在地になりました。
だから、それぞれの県庁所在地が、江戸時代以前から、敬意をはらわれているので、県がまとまっています。
しかし、長崎県はそうではありません。
戦国時代、長崎氏は、大村の家来でした。現在の長崎市は、数十戸の寒村(長崎村)で、大村氏がジャングルだった長崎村に土木工事を施し町を造成しました。大村純忠の名前は、日本で初めて仏教からキリスト教に改宗した大名として名前が登場しますが、長崎の名は、登場しません。長崎は、意識的に大村の下なのです。
*司馬遼太郎「街道を行く」より
*戦国時代の西九州(長崎などありません)
長崎県も長崎市も、大村によってできたことが知られたら困るという考えのようで、さまざまな方法でウソの歴史を教育していますから、長崎市や長崎県の出すウソの歴史にだまされないようにしましょう。
実際、長崎氏は、大村氏の家来であり力のない手下でした。だから、豊臣秀吉の朝鮮出兵にも長崎氏は参加していませんし、関ヶ原の戦いにも長崎氏は参加していません。長崎氏は、日本の歴史に参加していません。
朝鮮出兵 文禄(ぶんろく)の役(えき)一番隊 1592年
小西行長、宗義智(対馬)、松浦鎮信、有馬晴信(島原)、大村喜前(おおむらよしあき)、五島純玄(宇久純玄)ら計18700人1592年 6月15日、一番隊・小西行長らが平壌(ピョンヤン)を制圧する。
慶長の役 1598年
出典:名古屋市、秀吉・清正記念館パンフレットパンフレットには、大村喜前(よしあき)公の名前が掲載されていました。その書状の名は慶長の役(1597年)陣立(じんだて)書。朝鮮出兵のさいに、大村からは千名が出兵(上段左から二番目)。いとこの島原の有馬は二千名(上段左から三番目)。さすがは小西行長公、七千名も。
大村は、豊臣秀吉の朝鮮出兵では、五島と共に、小西行長の一番隊で参戦しました。関ヶ原の合戦時は、徳川の東軍になりました。
また、明治維新では、新政府方で、秋田の角館を守り、錦の御旗(にしきのみはた、写真は下記、国立公文書館)を掲げて戊辰(ぼしん)戦争にも参加しました。長崎市民が大きく自慢する長崎氏など、どこにも名前が登場しません。
明治元年(1868)正月3日、鳥羽・伏見で新政府側と幕府側が武力衝突し、戊辰戦争がはじまりました。掲載資料は、戊辰戦争の際に新政府軍が用いた錦旗の精密な模写図です。 pic.twitter.com/ZfaHBd0br0
— 国立公文書館 (@JPNatArchives) 2016, 1月 3
長崎村の統治権は、大村の後、豊臣秀吉から徳川家康になりましたが、幕末、大村が長崎奉行になって長崎を治めました。
どうみても、潜在意識では、長崎は、大村の下にあるのに、県庁だけがあるため、上から押しつけてくる印象です。
長崎県が、大村に敬意をはらい、本当の歴史、つまり、「大村純忠がいたから長崎市ができた」というような教え方を県全体ですればいいのです。
しかしながら、長崎市は唯我独尊で、日本の歴史では江戸時代からなのに、太古から「長崎すごい」という変な歴史観をベースにした「長崎っ子」をおしつけてくるから、うまくいかないのだと思います。長崎市は、大村の家来であった長崎氏が、大村の下であったことを認めないウソの歴史観なのです。
大村に敬意のない長崎県がいくら「長崎っ子」を押しつけても、長崎は事実を認めないウソで塗り固めた歴史だから、心の中まで長崎県の思い通りには支配できないでしょう。
長崎が尊敬されない理由の一つ
教育関係者ならご存じの通り、長崎市の少年犯罪、多いですよね。児童が幼児を殺害する殺人事件がおきたり、変な事件が多いのが長崎市。「長崎っ子」という悪いイメージで、長崎県ではあるけれど、他の市町を一緒にしないでほしいです。長崎が未開のジャングルだったころから存在している市町の名前である、大村っ子、五島っ子、島原っ子のほうが自然ですよね。