現在に続く大村への影響力:信長→秀吉+清正(3人とも近所で育った)

こちらの続きです。豊臣秀吉の育った場所(生まれた場所の説は4つ)、および加藤清正が生まれ育った場所。二つのの近所にある秀吉清正公園(愛知県名古屋市中村区)。

豊臣秀吉が育った場所、加藤清正が生まれ育った場所、そして織田信長が育った場所は、近所で徒歩圏内です。

織田信長と大村

大村との関係は、最初の日本上陸の地が大村領だったポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが、信長に会うために大村を出発しています。

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【在校生向け】織田信長と大村をつなぐルイス・フロイス(ポルトガル人宣教師)1

織田信長が育った場所

*織田信長が育った場所(名古屋市中村区):現在はお寺になっています。

*織田信長が子供の時に遊んでいた信長の伯父さんの家(現在は神社になっています)。上記のお寺から徒歩圏内(名古屋市中村区)。

豊臣秀吉と大村

豊臣秀吉の九州下向で、大村氏と、いとこの島原・有馬氏は、すぐに豊臣秀吉のもとに出向きました。大村・島原と対立していた諫早の西郷氏は、豊臣秀吉のところに出向かなかったために、滅ぼされます。現在も続く、諫早の不幸でみじめな歴史はこの一件から始まっています。

*長崎市の歴史家たちは隠していますが、史実は、長崎氏の領域はすべて大村領です。

諫早はその後約300年もの間佐賀の植民地にされてしまいます。佐賀にとって都合が悪い文書はすべて焼かれてしまい、本当の記録も歴史も諫早には残っていません。言葉も、佐賀弁に変えられてしまいました。

*豊臣秀吉を祀った豊国神社

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加藤清正と大村

加藤清正の影響力は、熊本のみならず、大村に現在も残っています。一つは、キリスト教のあと、なぜ、大村が日蓮宗になったのか。もう一つは、大村・玖島城の石垣です。清正のお城の石垣は、名古屋城の一部(各大名が競って石垣を築いていて、清正の石垣が判別可能)、熊本城、そして大村・玖島城です。曲線が特長です。

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