*どっかの知事(沖縄の知事)と秋田の知事を比較してある記事↑
大村高校の前身・1670年に玖城(くじょう、玖島城)内で開校した九州初の学校である集義館(しゅうぎかん)。
開校した大村藩の殿様は、江戸で育ち、大村にやってこられた、江戸弁(現在の東京弁)で会話していたと言われる大村純長(おおむらすみなが)公。
そして、集義館の初代館長(校長)は、大村純長公が江戸でスカウトした、秋田藩の加藤左司馬(かとうさしま)。
*秋田の位置
秋田藩の殿様である佐竹 義処(さたけ よしずみ)公の許可で、秋田藩の加藤左司馬(かとうさしま)は、はるばる秋田藩から大村藩に。
wikipediaより:佐竹義処(さたけよしずみ)公
これは推測なのですが、大村高校の前進・集義館(しゅうぎかん)を命名するときに、秋田藩の殿様・佐竹義処(さたけよしずみ)公に感謝する意味で、佐竹義処(さたけよしずみ)公の名前から集義館の「義」がつけられたのではないでしょうか?
さて、秋田藩からはるばる大村にやってきて、初代校長になった加藤左司馬は、大村藩の藩政にも貢献。約200年後の子孫である加藤勇(かとういさむ)は、明治維新にも貢献し、明治時代に開校した旧制大村中学校の初代校長になっています。
ご存じのように、幕末、東北地方で秋田藩だけは新政府側でした。まわりのすべてが幕府側。
*画像出典
新政府側だった大村藩は、秋田藩を救援すべく、角館(かくのだて、現・秋田県仙北市)を防衛して、町を守りました。その町には、後に、新潮社を設立する佐藤家がありました。加藤勇も角館の防衛に出征しています。
大村藩は、角館の防衛に成功しましたが、浜田少年は戦死されました。
角館の戦に勝って、大村で戦勝パレードが、大村の片町、本町でおこなわれました。
*イメージが浮かんでこない人のために
*イメージ画像:片町から本町でのパレード(戦勝パレードではないですが、イメージとして)
そのパレードに参加していたのが、後にヘボン(日本語をヘボン式ローマ字で表記する)に出会い明治学院大学創立メンバーになる熊野有七(くまのゆうしち)先輩です。
戦勝パレードを見て、刺激され東京に出る決意をしたのが、五教館(ごうこかん)の生徒で、後に北海道大学初代農学部長→北海道大学第二代総長になる南孝次郎(みなみたかじろう)先輩です。
なお、現在の秋田県知事・佐竹 敬久(さたけ のりひさ)氏は、秋田藩の殿様の子孫です。また、第七代秋田県知事は、大村出身の岩崎小次郎先輩です。
大村出身、第七代秋田県知事 岩崎小次郎先輩
それから、秋田市の中心部にある千秋公園は、大村の長岡安平(ながおかやすへい)先輩が設計して、現在に伝わっています。