*PM=Prime Minister=プライム・ミニスター=総理大臣、首相
日本の決意がきまったもよう
CNBCより
安倍総理大臣:北朝鮮は現在の路線を継続すれば「明るい未来」はない
日清戦争の開戦は、清国が長崎事件をおこしたことで、日本は覚悟が決まりました。話し合いではっきりとした決着がつかなかったからです。
*長崎県教育委員会と長崎県の教員たちが教えない長崎事件を知ろう!
水爆(長崎型原爆の6倍の威力)実験成功と、弾道ミサイル攻撃を実行すると主張し続ける北朝鮮を、現状のまま、そのまま野放しにはできないでしょう。話し合いで決着するレベルは超えています。
北朝鮮に関して、日本は国家としての覚悟がきまったように思います。アメリカとの電話会談で、アメリカは動画で覚悟が発表されましたが、日本では(産経以外は)、内容を報道しませんでした。
長崎事件
長崎事件を教えない長崎県教育委員会と長崎県の教員たち
重大な事件なのに、修学旅行を中国にする長崎県の教員らが長崎県では触れたがらない、長崎事件。
まず、長崎事件を知る、思い出す必要があります。無許可で上陸した支那人たちにより、治安を維持するために戦った日本人警察官が、長崎市内で殺害された事件です。
長崎事件を知ろう
この事件により、日本は清国との開戦を決意しました。
長崎事件の概要:
1886年(明治19年)8月。大村高校の前身、旧制大村中学が開校して2年目のできごとです。清国は、当時、世界最大級であった戦艦・定遠(ていえん)、鎮遠(ちんえん、定遠と同型)、済遠(さいえん)、威遠(いえん、練習砲艦)の4隻の軍艦を、修復理由に長崎に入港させました。しかし、ほんとうは大きな軍艦を見せて日本国民を威圧する目的があったと言われています。その軍艦の、定遠・鎮遠はドイツ製、当時世界最大級を誇る巨大戦艦でした。
長崎港に寄航したその夜8時半頃、「数名の清国水兵が、丸山遊郭の寄合(よりあい)町の貸座敷で家財を毀棄(きき=こわして捨てる)するなどの乱暴を働いた」との通報があり、丸山町巡査派出所にあり、巡査(じゅんさ、警察官のこと)2名が現場にむかいました。
現場では、清国の水兵らは、日本の巡査に暴行を加え、2人を逮捕しましたが、他の清国水兵は逃げました。
*台湾 中央研究院近代歴史研究所より
支那人(清国)側が描いた絵なので、事実は支那人300人程度、日本人10名程度の戦いであったのに、支那人が少なめに書かれ、支那人が被害者であることを強調したウソの絵になっています。また、わざと日本が文明開化前の姿で書かれています。
しばらくして、10名~15名ぐらいの清国水兵が派出所前に来て、中の一人の水兵が巡査を指差して何事か悪口のようなことを言っているのを見たところ、さっき巡査に暴行して逃亡した者の1人でした。
清国水兵を取り押さえようと日本の巡査が清国人に迫ると、その暴行した清国水兵は、日本刀を抜いて日本の巡査の頭上を切りつけました。
巡査はその刀を奪い取ろうとして、手と頭を負傷。応援の巡査と共に力を尽くして刀を取り上げ、押し倒してようやく取り押さえました。
その際、清国水兵も頭部を負傷しました。それより清国水兵を濱町(浜の町)警察署に送り、後に清国領事館に引き渡しました。
これが後の大騒乱の発端になりました。問題をおこしたのは清国です。
これだけでは終わっていません。支那人のことですから、何かあとで必ずやらかします。今の中国人と同じです。
2日後の午後5時頃、おおよそ300名もの清国水兵が無許可で長崎に上陸しました。
不穏(ふおん)な挙動(きょどう)があるとのことで、巡査1名のほか、梅香崎警察署から2名の巡査が現場へ向かいました。
清国水兵らは酒店などの店に入り、夜になっても船に帰りませんでした。後で判明したことは、清国水兵は、あらかじめ刀を持ち、棍棒を持つなど武器を日本に持ち込んでいました。
その2名の日本の巡査と清国水兵は揉(も)み合いとなり、他の巡査2名が駆けつけると、清国水兵20数名が現れて乱闘となり、清国水兵は百人以上となって、日本の巡査1名は清国水兵により殺害され、1名は重症を負って倒れました。
長崎警察署から、応援に8、9名の警棒巡査をが到着しましたが、現場では、200名程に膨れ上がった清国水兵が、思切橋から廣馬場街、舟大工町の周辺で暴行の真っ最中でした。
地図:清国人が無許可上陸し、暴行など破壊活動をはじめた思切橋
駆けつけた日本の巡査に対し、清国水兵は刀と棒で襲撃。日本の巡査も剣を抜いて防戦しましたが、多勢(300人の支那人)に無勢(8名の日本人)で遂に重傷を受け、翌日に入院先で殉職(死亡)されました。
やがて追加の巡査が駆けつけて日本勢は30名程となりましたが、それでも人数として不利で、ほぼ全員が負傷しながらも清国水兵をつかまえ、逃げ惑う日本国民である長崎市民を助け、また清国商人を救護し、鎮圧に努めました。
今の長崎市民と違い、昔の長崎市民は勇敢でした。
この騒動を知った長崎の付近住民が、手に手に武器を持って多数で駆けつけ、投石。
そのうち、清国士官も1人が即死し、負傷の支那水兵は15、6名に及びました。そして、清国水兵たちは清国領事館内に逃げ込みました。
昔も現在も、中国領事館は、日本に対する破壊活動の拠点になりそうですよね。長くなるのでm長崎事件のことを知りたい場合にはこちらへ:長崎事件。
NHKはドラマ「坂の上の雲」で長崎事件は、中国は悪くないという印象操作の放送をしたので、NHKにはだまされないようにしましょう。どう考えても、無許可上陸して、暴行や破壊活動をした支那人(現在の中国人、当時の清国人)のほうが悪いのです。
アメリカの覚悟は動画で公開されました
ただ、日本のマスコミは報道しませんでした。