*画像出典:ウィキペディア
明治39年(1906年)、アメリカ合衆国セオドア・ルーズベルト大統領(第25代・第26代大統領、任期1901 – 1909)のご令嬢アリス・ルーズベルトがサンフランシスコから船でアジア旅行に出発。そして日本の長崎に上陸。
ルーズベルト大統領のご家族
*テディ・ベアの「テディ」はセオドア・ルーズベルトに由来します。
*アメリカ合衆国カリフォルニア州サン・フランシスコ市
飛行機が長距離を移動する主流となった現在では、空港のない長崎市は、西のはずれの交通が不便で、刺激の少ない、閉鎖された町になってしまっています。
*画像:産経新聞より
だが、当時は、移動の手段がもっぱら船であったため、港町である長崎市は、海外に向けてオープンで、刺激のある町でした。いまは、もうダメになってしまっていますが。
長崎に上陸したアリス・ルーズベルトは、長崎から、日露戦争でロシアに勝利したばかりの、帝都・東京への旅の途中、なんと、大村に立ち寄った。
*知らない人へ。日露戦争とは?
*これは本物の日露戦争の映像です:国立映画アーカイブより
浦塩=ウラジオストック(ロシアの日本海に面した都市名)
*14秒より Aiでカラー化した映像
*オリジナル白黒映像
アリス・ルーズベルトが、立ち寄って、どこに向かって、何があったかは、アメリカの公文書館で、史料を探したあとで書き足したいと思います。ここでは、日本側、というより、手に入った大村関連の史料だけで書かせていただきます。
飛行機を発明したアメリカのライト兄弟(自転車屋さん)が、やっと空を飛んだばかりのころだから、長距離を飛行できる航空機はまだありませんでした。当時は、大村線が本線。
現在の長崎本線は、昭和9(1934)年12月1日開通。したがって、諫早 – 肥前鹿島 – 肥前山口の路線が開通する28年前の話です。現在の大村線が長崎本線であった時代です。
この話の舞台は大村駅でした。
さて、大村に立ち寄った、アリス・ルーズベルトの歓待と送迎をしたのが、旧制大村中学・第14代米沢武平(よねざわ たけへい)校長と、当時の旧制大村中学職員でした。
米沢校長は、兵庫県竜野中学(現、竜野高校、兵庫県たつの市)から、旧制大村中学に赴任していらっしゃった。
米沢校長の出身は、理屈っぽく口が達者な人が多いと言われる長野県。
思うに、実際、東京に住んでみてわかるが、確かに、長野出身者は理屈ばかりいい、口は達者だが、行動が伴わない人が多い気がします。
このころは、教職員の人事異動は全国規模でした。現在のように、井の中の蛙(かわず)のような、長崎県だけに限られた人事、つまり船の蛎殻(かきがら)のように一地方に、こびりついてしまったような人事異動ではありませんでした。
*研究船・やよい丸(国立東京海洋大学 海洋工学部)の船底こびりついた蛎殻(かきがら)
つまり、全国のさまざまな地方の方々が、校長や教員として、大村にやってきて、新鮮な風を吹かせた。また、大村の文化を持って、全国に移動し、新しい風を吹かせた。
よそに行ってみなければ、ふるさとの良さがわからないし、自分が何であるかもわからない。いまは、大半の教員が、よそのことを知らない、井の中の蛙(かわず)ばかりなっているのかもしれません。
実例をあげれば、長崎県出身で長崎大学卒、そして長崎県に勤務というのが、もっともよそのことを知らない教員たちだったことは、覚えがある卒業生も多いと思う。
だから、教員は、人間的に面白みのない、つまらないタイプが多くなってきたと同時に、尊敬もされなくなってきた。この感覚がいまとは違っていた時代の話です。
その、よそからやってきた、米沢校長のことに戻ります。
長野出身者である、口が達者な、米沢校長は、英語ができると周囲に自慢していました。
ところが、アリス・ルーズベルトの前で、得意の英語がまったく通じなかった。かわりに通訳したのが、英語教諭だった、錦戸(にしきど)先生で、先生の英語は通じました。
もう少しおつき合いください。
北大、大村高校、そしてルーズベルトがつながる件について書きます。
札幌農学校卒業生として初の博士号を受けた三名のうちの一人が、北海道大学第二代学長となった、大村の南鷹次郎(みなみ たかじろう)先輩です。
*札幌時計台HPに名前が登場している南先輩
経歴は、東彼杵(ひがしそのぎ)町・音琴(ねごと)で生まれ。
大村・福重(ふくしげ)で幼少期を過ごし、大村藩の五教館(ごこうかん)に五才で入学(大村藩の藩校・五教館は五才〜十七才位まで。十七才位で卒業)。
それから、大村の片町・久原(くばら)で育ち、大村高校の前身である五教館(ごこうかん)を卒業し、北海道大学の前身である札幌農学校に進学というルートです。
南先輩は、札幌農学校時代、新渡戸稲造(にとべ いなぞう)と同期(札幌農学校二期生)でした。同期は10名しかいません。
新渡戸稲造(にとべ いなぞう)は、札幌農学校を出た後、アメリカに渡ります。アメリカに渡り、滞在したアメリカで武士道という日本のスピリットを紹介した本を英語で出版しました。この本が、当時のアメリカでベストセラーになりました。
日本では未発売でしたが(当時)、アメリカでベストセラーとなった「武士道」が気に入ったルーズベルト大統領は、この本を60冊も購入し、友人に読むようにすすめ配りました。
そして、ルーズベルト大統領ご自身の子供にも与え「これはいい内容だから読みなさい」とすすめました。
その新渡戸稲造の「武士道」を読んだルーズベルト大統領の子供、アリス・ルーズベルトが、大村にやってきて旧制大村中学の校長と職員が接待したという話です。
なお、アリス・ルーズベルトと英語でお話をされた錦戸忠次郎先生の子孫は、大村高校から東京の大学に進学、パナソニック株式会社(大阪府に本社を置く世界的な総合電機メーカー)の役員を経て、現在(平成27年/2015)、東京大村会の会長です。
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参考文献:
・野口山荘随筆・・・私立大村中学第一回入学、その後、東京大学理学部に学んだが、当時の日本人の栄養不良による脚気(かっけ、日露戦争でも日本軍は脚気に苦しんだ)になり、やむなく川棚に帰郷。
川棚の小学校校長、平戸・猶興館(ゆうこうかん)教諭、旧制壱岐中教諭、日本領・京城の学校で教授など、各地で武者修行し、放浪し、旧制大村中学の教諭となった金滝大八郎先生の遺稿集。
野口山荘随筆に関して
金滝先生は、旧制大村中学で同期だった朝永三十郎(京都大学教授、ノーベル物理学賞・朝永振一郎 博士の御尊父)先輩と、あだなで呼び合う仲だった。
・大村高校百年史
忘れていらっしゃる方が多いと思いますが、明治17(1884)年、旧制大村中学の創立者である大村純雄(おおむら すみお)伯爵は、アメリカのトップ・ハーバード大学卒業生です。
旧制大村中学創設時、いやがらせばかりする長崎県とその代表者の長崎県知事はお祝いにも挨拶にも顔を見せませんでした。
開校当時、旧制大村中学にいらっしゃったのは、日本国・文部省の森有礼(もりありのり)初代文部大臣、そしてアメリカ合衆国・日本領事館のパーク領事でした(事実ですから)。詳細はこちら。
[2015年1月24日 @ 03:34 に投稿された記事に加筆、訂正を加えました]
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