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人を殺して、人の肉を食べる中国人たちを、留学生として日本に入れるのは、もうやめたほうがいいのでは?

写真で読む中国
事実を知ろう。彼らは、私たち日本人とは違うのだ。





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bxm05421
投稿日時: 2006-10-8 11:43
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登録日: 2003-7-13
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投稿: 361
History
伝統と文化を尊重し、歴史が継続している大村高校。そして、残念なことに、さまざまな理由から、伝統と文化を復活も継承もできなかった(しなかった)長崎東高、長崎西高。


引用:ニッポンの名門高校102(宝島社刊)



改正教育基本法が成立し、伝統と文化が重要な時代になってきている。もう、長崎市内の高校がリーダーシップを発揮できない時代にむかいつつある可能性が高まってきているのか?



*間違いなどがございましたら、是非、ご指摘、ご教示をこちらにお願いいたします。その場合、恐れ入りますが、参考文献や文書も教えて下さい。誤りはただちに訂正させていただきます。よろしくお願い申し上げます。





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* 明治維新の後、藩校制が終わり、新しい学校の制度がスタートしました。

それまで、肥前(ひぜん)と呼ばれていた領域が、二つに分かれました。一つは佐賀県、そしてもう一つが長崎県となりました。

長崎県が誕生し、その長崎県が、旧制大村中学校と旧制長崎中学校を、同じ年、1884年(明治17年)に設立認可しました。


それから大村の在校生は卒業生である先輩とともに歩んできました。


第二次大戦前は、旧制大村中学の先輩方は、旧華族(旧貴族)で伯爵(はくしゃく)であった大村家と五教館の先輩とともに歩んできた歴史があります。


第二次大戦後も、旧制大村中学(5年制)の先輩とともに、大村高校の卒業生も在校生も、共に歩んできた事実があります。


しかし、長崎東高、長崎西高は、旧制長崎中学校の偉大な先輩方を、60年以上ないがしろにして、見捨ててしまった事実があるようです。非常に残念なことです。したがって、大村高校とはまったく違うのです。


旧制長崎中学校の先輩と、長崎東高+長崎西高の在校生と卒業生は交流はしない(一度も交流してこなかった)ままで、同窓会も同時に開催されないまま、何と60年以上が過ぎ去ってしまったようです。


旧制長崎中学校の卒業生が、旧制大村中学校と大村高校の卒業生と在校生をうらやましがっておられた事実があります。


先輩をいとも簡単に見捨ててしまい、伝統も文化もないがしろにして、歴史を継承しなかった長崎東高校と長崎西高校という事実。


長崎東高校と長崎西高校とは違い、伝統と文化、そして先輩を尊重し、歴史を継承する大村高校の卒業生


道州制が施行されれば、県庁がなくなり長崎県は消滅する可能性が大きくなってきました。九州道の中心地は福岡市。これからは、さびれはじめた長崎市(人口が連続して減少している事実)より、躍進する福岡市に目を向けよう!


*連続して10年以上、福岡市と大村市は人口が増加している、活力がある都市だという事実があります。


新幹線が開通すれば、新大村駅(植松)から九州道の中心地となる福岡市の博多駅まで、乗りかえナシで1時間少々で到達できる可能性が高まります。





福岡市の公立のトップは修猷館(しゅうゆうかん)高校。大村高校と同じ藩校が発祥。大村高校より114年後に誕生した学校。大村高校と同じく、伝統と文化を大切にする学校。


さまざまな理由から、伝統も文化も捨ててしまい、大切にしてこなかった(現在もしていない)、薄っぺらなバックボーンの長崎東高や長崎西高より、厚い伝統を誇る藩校が発祥の、熊本や福岡の高校のほうが、確かに大村高校に近しいと思うのです。

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●1670年設立 大村高校

1670年の設立より、337年の歴史を持つ、全国屈指の伝統校。


1670年、日本初のキリシタン大名である大村純忠(おおむら*す すみただ)公から数えて四代目の大村藩主・大村純長(1636〜1706)公が、玖島城内桜馬場に開校した学校が発祥。


九州で1番目に開校した学校で、全国で岡山県の岡山朝日高校(1669年開校)に次ぎ2番の伝統を誇っている。



大村高校の沿革はこちらです。



大村から分離してできた3校
3校の頭文字をとってジム3兄弟校と名付けさせていただきました。

実は大村城南高校と長崎明誠高校、そして諫早高校は兄弟高校なのです。親は大村高校。

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●1869年版籍奉還

江戸時代の藩がなくなり、県となった。


当時の西洋列強諸国に対抗し、日本は東南アジア(*タイ王国を除く)やチャイナのような植民地の国にされないため、日本の国内市場を統一して、不平等条約を改正する目的があった。
*タイ王国と日本だけは植民地にならなかった。


大村県、平戸県、五島県、島原県、長崎府、壱岐県、厳原県の成立。
諫早は佐賀領諫早村。



●1880年設立 猶興館(ゆうこうかん)高校(平戸)

大村の五教館(ごこうかん、大村藩の藩校、大村高校の前身)から210年後に開校した猶興館(ゆうこうかん)。

猶興書院→県立中学猶興館(1887)→県立猶興館


猶興館(ゆうこうかん)同窓会

猶興館(ゆうこうかん)高校


大村の分校として諫早が開校したように、壱岐は、猶興館の分校として1909年開校した。

県立中学猶興館(平戸)壱岐分校→県立壱岐中学→県立壱岐


1883年(明治16年) 長崎県の成立

佐賀県を分離し長崎県が成立。

長崎県の成立以前に開校したのは、大村と平戸島の猶興館の2校のみ。

長崎県がない時代に、自分たちの力で、この2校は開校した実績。重要な事実。

●1884年設立 長崎東高(旧制 長崎高等女学校)

大村の五教館(ごこうかん、大村藩の藩校、大村高校の前身)から214年後に長崎東高は開校した。

大村人の自由な意志で設立した学校である大村と違い、徳川幕府領だった長崎人は、オカミ(つまり役所)から与えられて開校した。


県立長崎中学→第二次大戦後、当時日本を占領していたアメリカ軍の命令で、長崎県は県立長崎中学校、県立瓊浦(けいほ)中学校、県立長崎高等女学校、長崎市立高等女学校の4校を合併し、1947年長崎東と長崎西の2校に分割した。


旧制長崎中学では日露戦争の英雄だった島原出身の橘(たちばな)中佐を信奉していたのが、分割された理由の一つであるそうだ。



アメリカ軍に分割され、開校以来の旧制長崎中、そのほか3校の伝統と文化はすべて消えた。


長崎東高も長崎西高も伝統と文化を復活させなかった。


たとえば、東北地方各県の各伝統校には、アメリカの占領統治が終了したあとは、大村高校と同様に、自分たちの意志で伝統と文化を復活させたところがある。長崎東高や西高の人たちは、何もしなかったそうだ。


長崎東高と長崎西高は、アメリカ占領軍によって実施された、日本人から伝統と文化、それに歴史と誇りを奪う政策のなすがままにされた高校と言えるのかもしれない。


復活させるチャンスは何度もあったのに、長崎東高と長崎西高はチャレンジさえしなかったようだ。同窓会も何もしなかった。復活を言い出す人がいなかったそうだ。「残念だ、残念だ」と、外の人に対して不満をもらすだけで、どうして誰も何も動こうとしなかったのか、不思議な気がする。


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*大村高校の場合は、元経団連副会長だった今里広記(いまざとひろき)先輩、そして文学者・福田清人(ふくだきよと)先輩らが中心となり、自分たちで伝統文化を復活させ、歴史の継承に成功した事実。大きな誇りがある。
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もう、旧制長崎中学の卒業生のほとんどが亡くなられ、最後の卒業生が80歳近くになった現在では、伝統と文化の復活と継承は不可能になってしまった。


もう、覆水(ふくすい)盆(ぼん)に帰らず。こぼした水は、もとにもどらない。失われた60年は取り返せなかったようだ。



したがって、長崎東高も西高も、アメリカ占領軍によって伝統と文化がふみにじられ、歴史が断絶し、第二次大戦前をすべて否定して作られた、アイデンティティがない、歴史の継承と大先輩の活躍という、精神的なバックボーンを消されてしまい、復活も継承もできなかった、まるで、のっぺらぼうのような、奇妙な背景の高校だといえるかもしれない。



長崎東高や長崎西高の後輩たちに完全無視され、はしごをはずされたかっこうになっていた、旧制長崎中学とその他3校の大先輩の方々。

その方々に、東京で、講演やお話、そのほかさまざまな場を提供し続けたのが、旧制大村中学や大村高校出身者だという事実があります。



第二次大戦中と前後の数年が悪かったという理由だけで、長い伝統と歴史(それから誇り)まで、捨て去って、消し去ってしまっていいのだろうか。


過去があるから今がある。伝統と文化があるから現在がある。


さまざまな事情が重なり、大村高校は、そうはならなかった。大村高校は実に幸運だったと思う。



他に、平戸の猶興館(ゆうこうかん)高校でも伝統と文化、それに歴史は継続している。長崎や佐世保のようにはならなかった。


大村高校と同様、伝統校の猶興館(ゆうこうかん)は、卒業生に全国レベルの大物的な人材を輩出している。


具体例:長崎市中心部の商店街、かつては長崎県を代表する町だった小売業の浜の町。しかし、現在は、1社で浜の町全体より大きな売上げの会社がある。

小売業の浜の町全体より大きな売上の会社。それは、ジャパネット高田。町の写真屋さんから、ジャパネット高田を全国レベルの会社にした高田社長は猶興館(ゆうこうかん)高校出身。

ほか、猶興館(ゆうこうかん)の定時制出身で、現役で長崎大学教育学部に不合格、一浪して岡山大学法文学部に合格。大学在学中に司法試験に合格し、特捜検事トップまでのぼりつめた(現在は係争中)田中森一弁護士など。

大村出身の人材はこちらをご覧ください


長崎西高(旧県立瓊浦[けいほ]中学校)・開校エピソード

突然、アメリカ軍の命令で開校した長崎西高。市民はその事実を知っていたのかどうか。実は、伝統と実績のない長崎西高に、入試願書を出願する者が1人もいなかったそうだ。



*この当時、TVはなかった。報道は、新聞とラジオによっておこなわれていた。新聞もラジオもアメリカ軍によって押さえられていた。したがって、市民は本当のことを知ることができなかった。



伝統も実績も人気もない長崎西高(旧制瓊浦[けいほ]中学校)は、入試願書を出願する者が1人もいなかったため、アメリカ軍の命令で、生徒募集のために、旧制長崎中の後継として学校番号1番ということだけを引き継いだ長崎東高(旧制長崎高女)との合同選抜を受け入れた。


ほんとうは長崎西高なんて行きたくない、長崎東に進学したかった人が泣く泣く、あきらめて、長崎西に進学させられていた。そんなことがあったそうだ。



福岡市の修猷館(しゅうゆうかん)高校は、戦犯とされた文官で首相であった広田弘毅(ひろた こうき)の出身校であったので、アメリカ軍から、にらまれていたそうだが、福岡県や熊本県、鹿児島県などは、合同選抜などの命令を受け入れなかったそうなので、伝統校は残ったと言われている。


大村の場合も、長崎県で唯一、陸軍大将(陸軍第59代・福田雅太郎 大将)を輩出した学校であったのだが、さまざまな幸運な事情が重なって、福岡の修猷館(しゅうゆうかん)高校や東北各県の伝統校などと同様、歴史が継承されている。


*大村出身、旧制大村中から、陸士、陸軍大学卒で、陸軍第59代・福田雅太郎 大将は、生前、「アメリカとの戦争はすべきではない」とのグループに属していた。

**福田大将の娘さんのお婿さんは、第二次大戦後、学習院大学学長。


さて、21世紀まで、理由はわからないが、50年以上も長崎県はアメリカ占領軍の命令による合同選抜を続けた(2003年から、合同選抜は廃止されている)。



長崎北、南も長崎市の人口増により、開校され、また長崎市周辺部の人口増で長崎北陽台(長崎市内の高校ではない)も開校され、やはり合同選抜に組み入れられた。


*合同選抜が廃止になったのは、現・長崎県知事(2006年現在)の時代になってからです。



諫早と長崎西陵

諫早周辺の人口増で開校された長崎西陵高校も、理由はわからないが、諫早高校との合同選抜とされた。


第二次大戦直後の、長崎東に進学したかった人が、合同選抜で長崎西に振り分けられて、自分の自由な意志とは違う高校に進学させられた。

その方々のように、ほんとうは長崎西陵なんて行きたくない、諫早高校に進学したかった人が泣く泣く長崎西陵に進学させられていた事実があるようだ(現在は、諫早と西陵の合同選抜も廃止されている)。


諫早との合同選抜で、長崎西陵を全日制普通科の高校だと思って卒業したら、今度は、長崎西陵は、単位制高校となった。


諫早と合同選抜で、普通高校とのふれこみで強制的に振り分けられ、卒業したあとで、単位制高校となり、卒業生の思いは複雑なのかもしれない。


したがって、長崎西陵の卒業生は、ホンネの部分で、長崎県に少しだまされた気分があるのではないだろうか。


なぜなら、企業に就職する場合、あるいは転職する場合に、どこの大学を卒業したのかと共に、どこの高校を卒業したのかも重要な判定資料となることがある。生徒の将来を考えれば、もう少し、別の方法もあったのにと思うのだが、どうだろうか。



長崎南の校歌

作詞者は、福田清人先輩(旧制大村中学→旧制福岡高<九大教養部>→東大卒)

福田先輩の作詞した長崎県内高校の校歌
大村高
大村工業
長崎工業
波佐見高校
長崎南高
ほかに、大村市歌も作詞された。


●1900年設立 五島高
県立五島中学→県立五島

●1900年設立 島原高
県立島原中学→県立島原

●1905年設立 対馬高
下県郡総町村立対馬中学校→県立対馬中学→県立対馬

●1908年設立 佐世保北高
県立佐世保中学→県立佐世保第一中学、県立佐世保第二中学、県立東和中学→3校を1校に統合の後、当時日本を占領していたアメリカ軍の命令で、佐世保北と佐世保南の2校に分割され21世紀まで50年以上合同選抜が続けられた。
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