こちらの続きです。
Q2.安く、親指シフトを導入するには?
A.既存のキーボードにテプラでテープを貼る+親指ひゅんをダウンロードしてイ
ンスト-ルする。
図で示します。以下の2枚の写真をご覧ください。


親指シフターの文章は長い。なぜなら、短時間で高速入力できるからだ。どんなにトレーニングしても、ローマ字入力の2倍程度のスピードで入力できる親指シフトにはかなわない。時間の節約になり、思考の速度に近い感触で、入力できるのだ。ただし、IMEがATOKの場合です(変換効率が高いため)。MS-IMEはダメです。誤変換が多く、まるで、最近のゆとり教育で育った大学生並みなので。
問題があるとすれば、猜疑(さいぎ)心が強く、新しいことがすぐに頭に入らない、あなたにはやっぱり無理かな?
日本語の入力方法は、大半の人がローマ字入力だ。日本語なのにローマ字変換をしながら入力をしなければならない。たとえば、「か」を入力するのに、kとaを二回も打鍵(だけん)しなければならない。つまり、二倍の入力時間がかかっている。
かな入力方式も文字がキ-ボードの四段にわたって配列されていて、これまた、指を動かす回数が大きく、能率的ではない。
もっと効率が良い方法はないのだろうか?
実は、ある。

いままで、日陰のような扱いにされてきたが、知っている人は知っていて、きちんと使い続けられてはいた。経済的な競争が激しくなるなか、効率的に時間を活用するため、再び日があたりはじめたように思う。
日本語を高速に入力できる方式は、富士通の神田氏が開発した親指シフトとよばれる入力方式だ。人にもよるが、日本語の場合、ローマ字入力の最高二倍くらいの高速入力ができるのだ。つまり、時間を半分に節約できる。
そんな、おまえは、解説だけで、親指シフトなど使ってはいないのだろう?と、あなたは私に言うかもしれない。だが、あなたのそのような考えは、間違いだ。見方を変えたほうがいい。
私は、1986年、はじめて購入したワープロが、富士通の親指シフトのオアシスだ。パソコンが企業に普及していなかったころ(1995年くらいまで、各企業は、システム部や情報通信ネットワーク部を除き、紙と電卓を前にして仕事をしていた)、ワープロを購入して親指シフトも覚えた。
高速入力ができるのだが、非効率的なローマ字入力の方が先に普及してしまい、親指シフトは、富士通ファンや、親指シフトの実力を知っている特定のマニア(私など)や、日本語の高速入力が必要不可欠な作家、あるいはライターの方たちだけが使用するものとなっていた。ただ、だんだん状況は変化しつつある。

では、どうすれば、親指シフトの入力方式が可能なのか?
キー配列を変換するソフト(無料)を導入して、キーボードにテプラなどで、シールをはれば、親指シフト入力方式のキ-ボードができあがる。辞書は、ATOKなどがそのまま使える(現在、私はこの方法)。少し投資できる人は、親指シフトの変換ソフトとキーボードをアマゾンで購入すれば(以前、私はこの方法だった)、すぐにできる。参考写真はこちらです。
会社ではローマ字入力。自宅では、親指シフトだ。親指シフトのおかげで、時間をムダにしないで、日本語を入力できるので、効率的にHPとブログを運営できている。
さて、参考になるサイトをリンクしておきますので、時間をムダにしない高速入力を身につけたい人はチャレンジしてください。
Q1.もっとも簡単に親指シフトを導入する(1万5000円の投資)には?
A.富士通の親指シフトキーボード+親指シフト変換ソフトを導入する。
![]() | Japanist 2003 関連商品 富士通 親指シフト キーボード FKB8579-661EV 無理なく続けられる 年収10倍アップ勉強法 無理なく続けられる年収10倍アップ時間投資法 無理なく続けられる年収10倍アップ手帳2008 Buzan's iMindMap日本語版スタンダード・エディション by G-Tools |
Q2.安く、親指シフトを導入するには?
A.既存のキーボードにテプラでテープを貼る+親指ひゅんをダウンロードしてイ
ンスト-ルする。こちらの写真をご覧ください。
Q3.高速入力を身につけるには?
A.練習するのみ。打つべし!打つべし!打つべし!
しばらくすると、ローマ字入力の非効率さが身にしみてわかってきます。
参考サイト:
日本語入力コンソーシアム
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写真は、1976年の古門教頭先生。高校総体入場行進。長崎・松山
前任の教頭先生(野母崎出身)とは違い、新任の教頭先生は福岡出身だった(正確には小倉)。
ご存じのように、静かでおとなしい長崎の男とは違うタイプが、福岡では求められる。元気の良さや男ぶりの良さは長崎では求められない。古門教頭は福岡出身だったことが影響していたのだと思う。
私の母親は福岡出身だ。私は母親から商業都市である福岡市風に「挨拶は相手がする前に、自分から大声で元気よくしろ」と育てられた。だから、子供の時から、いまも、そうしている。

実は、高2の時に、こんなことがあった。誰もおぼえてはいまい。
それは、始業式の日だった。正確には高校2年(1976年)の9月1日だった。
始業式では、教頭が、学期初めの挨拶をする。普通のつまらない話のあと、「大村高校では、みんなあいさつをしない。あいさつは、ルールを守る第一歩なのだ」などという話になった。
そこまではいい。
「この中で1人だけ、毎朝、きちんと元気よくあいさつする人がいる。2年のXXくんだ。XXくんを見習って、元気よくあいさつするように」と、教頭が新学期の話をしめくくられた。
「XXくん」というのは、私の名前だった。名指しで、全校生徒の前で発表された。寝耳に水というか、青天の霹靂(せいてんのへきれき)というか、ひょうたんからコマといった感じだった。
教頭がほめてくれたのもいい。

写真は、1977年の古門教頭先生。高校総体入場行進。長崎・松山

社会人となり、採用の側にまわってみると、「なぜ東京の大学に入らないで田舎の大学に入って、わざわざ東京の企業に就職したがるのだろう?」ということや「社会のことをあまり知らない田舎教師からすすめられ、偏差値だけで、地方の大学に入るようにさせられているのだろうか?」という疑問もわく。
何かを求め、チャレンジ精神のある人は、みんな東京(東京や横浜出身の人はアメリカを)をめざしている。「自分の力で東京に出たんだ」という証(あかし)が、東京の大学に入ることなのだ(企業では、そう評価することもある)。
実際、10代後半から20代前半の重要な時期に、東京生活を体験したものとそうでなかったもののギャップは一生埋められない、と思う。
調べようとしないで(情報を分析しないで)、新しいことは何でも反対ばかりする教員たちのように、あなたがならないためにも(私の中学、高校時代に、そのような教員たちを見てきた経験より/もちろん、そうではない立派な先生もおられた)、情報のあふれる東京で、これからの時代に必要とされる、すばやく確実に、しかも大量の情報を、限られた時間で処理し、そして意思決定できる能力を身につけるためにも、東京に出なければ、東京の大学に入らねば、ならないのだ。
田舎ではそのような能力は身につかない。なぜなら、情報も刺激も乏しいからだ。

また、小・中・高と、一見おとなしそうだが、きびしく、気が強く、文句ばかりいうタイプの女性が長崎県(大村)には多かったように感じられたので(今は違うかもしれない)、こんな町は早く出て行かなければとも思っていた。
クラスメイトから無視された私は、わずらわしいクラスメイトとのつきあいがなくなり、楽になった。Freeだ。私はクラブをやっていたので、クラスで会話がなくともクラブで会話があった。
高校時代は、そんなに楽しいものではなかったが、写真を見ると、楽しそうだ。そんなものかもしれないなぁ。

ところで、この話には後日談がある。
高校3年(1977年)の9月1日に、教頭先生は、また、全校生徒の前で、同じ話をされた。また、私の名前が発表された。
今度は、クラスでは、誰も私を無視しなかった。というより、3年で、勉強が忙しく、みんなそれどころではなくなっていた。
いじめや無視は、ヒマだからするんだろうか?忙しければ、人を無視して遊ぶ余裕はなくなるのかもしれないなぁ。
そう思いながら、今日も、日経新聞と本をバッグにつめこみ、私は、朝の駅へと急ぐのだった。

実は、英語を覚えても、閉鎖的な性格の人はちっともうまくはならない。テストの成績と性格+コミュニュケーション能力は少し違う。
関係ないことを書けば、1984年8月、大学時代、東京の新宿エリアで、迷っているアメリカ人女性を見かけた。だから、声をかけて、「そっちの方向はあぶないよ」と伝えた。
実はその人は、1983年9月から1984年7月まで、長崎東高校に留学していた人だった。ミネソタ州ミネアポリス市出身で、長崎東高のあと、マサチューセッツ州のカレッジに進学した。祖先は、ノルウェーからアメリカに渡ったのだそうだ。名前はナターシャ。
新宿で偶然、長崎東高に留学していた人と出会って話したあと、連絡先を聞かれたので、大学の学部の住所を教えた。最初は、なんと、彼女から、私の大学の学部にエアメールが届いた。
大学の事務局から呼び出しがあった。事務局で手紙を受け取った。それから、しばらく手紙をやりとりした。手紙には、(英語で)長崎での文句が少し書いてあった。やっぱり、長崎市の人も、大村の人と同じで、閉鎖的だったようだ(今はどうかは知らない)。

さて、写真は、博多駅デイトスの受付のお姉さん。少し話したあとで、「写真を撮っていいですか?」とたずねてOKの返事をもらったので、撮影した。1980年だったと思う。
予備校時代は福岡で過ごした。大村の同期の連中は、全員、九州英数学館だった。私は、水城学園だ。水城では、大村高校出身者は、理科系で気が強い女性と、私の2人だけだった。わたしは、大村の人と、つるまない。
このころは、まだ、代々木ゼミナールも河合塾も全国制覇していなかったので、福岡の予備校は、英数と水城が2大勢力だった。
実際、大村の同期の連中は、福岡の予備校に通っても、大村から抜け出すことができず、大村メンバーでつるんでいたようだ。天神や新天町で、彼らを何度もみかけた。
私は、大村より、福岡のほうが合っていた。すぐに、福岡市内の人と友だちになった。いまでも、福岡のメンバーとは会っている。
結論は、人には、それぞれふさわしい場所がある。わたしには、長崎県大村市はふさわしくなかった。そういうこと。

高校時代、数学の片山先生がこう言われた。
「大人になれば、大学入試程度の現代文の問題は、勉強しなくても、正解できる。ただし、新聞や本を読み続けることが前提だ」と。

この日、先生は、高校時代には、スタンダールの「赤と黒」くらいは読んでおけとおっしゃった。
すぐに、当時、大村本町アーケードにあった文光堂という本屋で、文庫本を購入して、私は読んだ。

それから、20年以上の月日が流れた。
まだ、年数はあるし、少し早いのだが、子供の中学入試に向け、国語の入試問題にチャレンジ。

まず、私が、大学入試用の問題集を購入して、解いてみた。
出口の現代文レベル別問題集 上級編だ。難関私大・国公立用となっている。
「な~んだ」という感覚で、全問正解できた。いや、これは、何かの間違いかもしれないと思い、自分の奥さん(学習院大学法学部卒)にもチャレンジしてもらった。やはり、全問正解した。
高校時代と違って、すぐに答えがわかってしまう。しかも制限時間の半分もかからないで、すぐに正解がわかってしまうのだ。出題者の意図も見えてしまう、奥さんも同意見だ。
問題演習のあと思ったことは、もしかしたら、高校の国語の先生は、なまけものかもしれないと。あんまり努力しなくても、問題が解ける人が多いのではないかと感じられたため。
さて、結論は、高校時代に、数学の片山先生が言われたことは正しかったことが証明されたということ。
学校のレベルにもよるが、国語に関しては、大学入試の現代文より、私立中学の入試問題ほうが難しいように思えた。考えさせる問題が多かったので。


チャーリーズエンジェル ファンサイト
*エンジェルを束ねるマネージャーのボスレーは、お亡くなりなったようです。
ファラ・フォーセットの魅力
このころ、今と似たような状況で、ガソリンの価格が上昇した。今とちがうのは、省エネが実施されたことだ。
省エネとは、省エネルギーの略語。当時、原子力発電所が少なく、電気を火力発電で、ほとんど石油にたよって発電していた時代。ムダな電気を節約して石油の消費量をおさえなければ、国の経済が止まってしまう可能性があった。
だから、省エネは徹底していた。
テレビはすべて夜12時で番組が中止(民放も)。博多・中州や大阪・道頓堀(どうとんぼり)のネオンも12時で消灯。
そのおかげで、乗り切れたかどうかはしらないが。今後、インド・中国の台頭で、エネルギー危機になった場合、資源のない日本は、省エネで乗り切るしかないのだろうか。
まだ、クルマも少なかったし、コンビニが長崎県に一店もなかった時代。
当時、どこの大学も法学部に女子は少なかった。私の大学のクラスも。その1人が、池袋を案内してくれた。東京の子だった。学生で、お金もないので、安い店で遅くまで話しこんだ。バブルの前の時代は、まだ、みんな慎ましやかだった。
東京では、通学・通勤経路により、どこのターミナル駅(新宿、渋谷、池袋等)を利用するかで、知っている町が大きく異なってくる。私は渋谷がターミナルで、池袋は全然知らなかった。誘ってくれたクラスメイトのターミナルは池袋だったので。
付け加えですが、池袋サンシャイン60にある「古代オリエント博物館」は、旧制大村中学の今里広記(いまざとひろき)大先輩が建てたものです。
野岳湖です。4月の歓迎遠足です。高2です。上記はOくんです。今は、世界で有名な多国籍企業の研究者だそうです。
もてていたFくん。真ん中の白シャツの男子。毎年、バレンタインデーでは、食べきれないくらいのチョコをもらっていたようだ。
この時、私は、途中まで写真撮影をして、フォークダンスに参加した。記録を残すことに使命感があったわけではないが、写真同好会を写真部に昇格させるためには、実績をあげておきたかったのかもしれない。この年の秋、写真同好会が写真部に昇格となった。
東京と九州ではもてる男の基準が違うようだ。詳しく書くと長くなる。九州でもてる男の条件である「男らしさ」。これが東京では、なかなか通用しないのだ。幸い、私は、九州より東京のほうがフィットしていたが。大阪や京都も、また、違うようだ。
参考として、市川猿之助(いちかわえんのすけ)のスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」で、九州人である熊襲(クマソ)の描かれ方を見れば、わかる人にはわかる(スーパー歌舞伎とは?)。
当時、家政科は2クラスあった。理数科はなく、普通科は7クラス。7クラスのうち、1クラスが男子クラスだった。
さて、この写真は1976年です。勘違(かんちが)いしないでください。写真では15才か16才ですが、撮影して31年もたっているんです。かわいい女子も、かっこいい男子も、面白い人も、もう、そこにはいません。