2008年01月09日
●初めての大村まつり
初めての大村まつりは中2の時だった(1973年/昭和48年)。突然、降って湧いたように大村まつりというものが始まった。11月だった。それまで、そんなまつりは大村市になかった。
写真は、中学の同期。鈴田大浮立(すすた だいふりゅう : 浮立とは?)、という出し物を演じた3人のうち、真ん中の1人が大村高校(高校時代)に進んだ。彼は、今、ビッグビジネス(大企業)の財務部長をしているらしい。
この日、鈴田の生徒は、半休し、おおむらまつりに参加(出演)。それ以外の生徒は(わたくしも)正規の授業だった。
はじまったばかりだったせいなのだろうか、手作りの素朴な祭りだった。子供心にもそう感じた。
出し物が終了したあと、食事している3人を撮影。 晴れた日だった。大村公園にて。
2005年09月23日
●合格発表の続き
![]()
![]()
![]()
以上の写真は、こちらの続きです。
高校の合格発表を見て、その足で、中学に戻ったときのもの。まだ中3。高校入学前。15歳。
何気ない記念写真ですが、東証一部上場企業の一族の方が写っています。30年も昔の写真です。
2005年09月02日
●大村高校・合格発表直後の玖島中にて
![]()
普段の放課後にも見える。
だが、違う。
こちらにも書いておいたのだが、大村高校のボードで合格を確認し、合格した生徒は、卒業した母校・玖島中へ、よろこびを胸に、3年間のお礼と挨拶のために、続々と出向いた。
その日の写真です。玖島中職員室側より正門を撮影したものです。
卒業式が1週間前に終わっているのに、みんな制服を着用している。名札もつけたままだ。案外、みんなマジメじゃないか。
後ろ向きの方々はわかりませんが、横顔、正面を向いている女性6名と男性1名の名前はわかります。
他のエピソードとしては、こちらをご覧ください。
2005年07月04日
●大村高校合格発表

写真の2人は、国立大学を卒業して長崎県の教員になっている。つまり、今、学校の先生をしている。2人とも、まじめで、しっかりした性格できびしかったからなぁ。いまでも私は、なんだか2人におこられそうだ。でも、写真を撮影する時は、2人とも愛想がよかった。
さて、写真は、大村高校の合格発表日の朝撮影したものです。バックは、大村高校テニスコート、かなたに国道34号線です。
この前日、玖島中3年8組のメンバーは、多良岳登山をしていた。前日の登山疲れで、合格発表日の朝はねむかった。
冬山なのに、みんなよく登ったものだと思います。この登山の時の写真は、2000年ころ、Uくんを通じて、クラスメイトの全員に無料で送付させていただきました。
左の女性とは中学3年だけではなく、小学3・4年の時も、同じクラスだった。しかも、かなり長い期間、席がとなりだった。
小学3・4年当時、実験校だった大村小学校では、毎日、朝、漢字ドリルと計算ドリルそれぞれ20問、それからローマ字作文(簡単な文章をローマ字で作成)のテストが実施されていた。
テスト終了と同時に、席がとなりの彼女と交換して採点。いつも彼女は100点だった。
一度、彼女が一つだけ間違ったとき、くやしがっていたのを覚えています。

朝、9時か10時に合格発表されるとかで、早くからボードの前にたくさんの人が集まっていたと思う。
現在の合格発表と少し違うのは、誰も親がつきそってきていないことです。
![]()
大村高校合格発表ボード 玖島3-8男子
1975年3月
すべての始まり。ビッグバン。
2004年11月17日
●Mさん
Mさんといっても、同窓会長をしていらっしゃる、あの、おじいさんではない。おじいさんのご令嬢です。
現、同窓会長のMさんは、今はきびしい表情のおじいさんのようだが、昔は、柔和でほがらかな、おじさんだった。人は皆、誰でも年を取る。少年だった私もおじさんになっている。あなたも、いつの間にか年を取る。時間には逆らえない。それが宇宙の法則だ。
あのころ、高校に合格しても親から「合格おめでとう」なんて言われなかった。親が子供に関心がなかったのかもしれない。まぁ、そんなものだった。
★さて、ストーリーはこうなっている。
中学を卒業して1週間後くらいが、公立高校の発表だった。
大村高校合格発表のボードで合格を確認し、合格した生徒は、卒業した母校・玖島中へ、合格発表の知らせと3年間のお礼+挨拶に、続々と出向いた。
▼大村高校合格発表ボード
▼そして玖島中3F
▲そのころ玖島中1年だったMさんたちが3Fから見ていた。
▼わざわざ休み時間に1Fまで降りてきてくれて、直接、わたくしに「合格おめでとう」と言ってくれた。うれしかった。Mさん、ありがとう。高校、大学の入試合格で、「合格おめでとう」と目の前でストレートに言ってくれたのは、私の人生の中で、Mさんだけだった。
▲玖島中1F職員室前
現、同窓会長はご存じないかもしれませんが、ご令嬢のMさんは、大村高校に入学された後、写真部員でした。
私は3年の時に初代部長で、2年のMくん(卒業後、あの今里廣記氏の門下生となり、現、オムロプリント社長)が2代目部長。そしてMさんが1年だった。
M野さんも、写真部員として積極的に、文化祭にむけ撮影と作品の制作をされていました。
いつも、ドラえもんのポケットのように、Mさんの制服のポケットからは、お菓子が出ていました。タイミングがよかったし、魔法のようで、不思議な気がしていました。
それから、大村高校を卒業する時に、Mさんからプレゼントをいただきました。お礼を言えないまま、30年もたちました。自分の人生の中で、Mさんは、わたくしの高校入学と卒業に立ち会ってくれた人です。遅くなってしまいましたが、ありがとうございました。
2004年11月15日
●大村高校合格発表直後

大村高校30回卒の入学前、高校合格発表日。30回卒なら、2人は誰かわかると思う。1人はT真珠のTくん。もうひとりは...。 2人の間に写っている後ろ姿の2人は、ゴーイチとフミキです。また、右側の後ろ姿の人は、Tガワくんです。 この写真の数分後に撮影した続きもあります。
----- 写真と以下の文章は関係ありません。-----
高校の成績で人生は決まらない。成績が悪くてもチャンスは必ずやってくる。そのためにはあきらめずにチャレンジしなきゃダメだ。 あきらめたら終わりだ。
佐世保西高で講演された、大村高校13回卒の安井先輩も同様のことを感じておられる。講演の記録(PDFファイル、 佐世保西高作成)
さて、はるか遠い星の出来事を昔の写真をもとに、思い出しながら作成しているようなものが、このブログ同窓会版なのかもしれません。 かなた昔の記憶が失われる前に(年齢的なもの)、書きためておく、その意味もありますが、理解者がでてくるかどうか。
2004年11月04日
●見えていなかったこと Vol.1
気まぐれ連載「あのころ見えていなかったこと」
~大村高校入学から福岡での予備校、東京の大学合格まで~
Vol.1 入学前
高校に合格が決まったのもつかの間、すぐに入学前補習が始まった。 春休みの1週間(3月22日から3月29日)、1日3時間(8時30分から11時50分)、英語・数学・国語の授業だった。
▼合格直後、入学前補習の掲示板

入学前補習の席順は、入試の受験番号順だった。幼稚園から、小中と1度も同じクラスになったことがない縁のなかった連中と、はじめて同じ空気の中で授業を受けた。
私の前席が中3時のクラスメイトUくんで、左隣の席は、同じクラスになったことがなかった本郷くん(大村高校生物科の名物教師だった本郷先生の長男)だった。本郷くんは、休み時間に、貞松時計店で購入したという、セイコーのアドバンという腕時計を自慢していた。オレンジ色の文字盤だった。
合格してわかったが、私の中3のクラスでは、市内中学(このころは4校。玖島、西大村、郡、萱瀬)最多の人数が大村高校に合格していた(普通科12名、家政科4名の合格)。不合格になったのは1名だけだった。中3の担任も誇らしかったと思う。玖島中(当時1学年9クラス)の他クラスでは、普通科4名しか合格しなかった最低クラスもあったそうだ。
このころ、青雲学園が1期生だった。実は、大村高校に不合格だった人たちが青雲に進学していた(長崎・東西南北4校や佐世保・北南西3校でも事情は同じだったそうだ)。最初は、中3の冬、突然、青雲学園という学校ができるという噂が流れた。大村市内の開業医で、中3や小6の子弟のいる家に青雲学園の担当者が訪問してきて、入学の勧誘をされたとの話が市内をかけめぐっていた。胡散(うさん)くさい学校じゃないか?誰がどんな理由で学校を設立したのかわからないとの話しだった。
また、青雲という高校名は、当時、人気のあった巨人の星というマンガに登場する高校名と同じで、得体(えたい)のしれない学校のように写っていた。今でも、長崎の青雲は正体がよくわからない学校だ、と首都圏では思われているかもしれない。たとえば、鹿児島ラサールや高知の土佐中・土佐高、ほかにトヨタ自動車とJR東海が設立した海陽中・高ならば、どんな人がどんな理念で学校を設立したのかが明確に伝わってくるのだが、青雲は設立当初から、親やどころか受験生にもさっぱり伝わっていなかった。まぁ、首都圏には私立の中高一貫校は男女ともに数多くあるので、わざわざ興味を持つ人は少ないと思う。
「長崎の青雲は正体がよくわからない学校だ」と何度も耳にするので、長崎・青雲のホームページを拝見して確認してみると、確かに詳細がはっきりわからないのです(2004年11月現在)。もしかしたら、同窓会が学校の不備を補うかたちでホームページを作成しているかと思い、調べてみたが、青雲学園の同窓会は独立したホームページがないようで、はっきりしたことがわからないままでした。
蛇足なのですが、海陽中・高の設立者で、トヨタ自動車の豊田章一郎氏は、第二次大戦前の一時期、大村・片町に住んでおられました。大村高校の前身・旧制大村中学とつながりもあり、旧制大村中の記録にも出ており、旧制大村中の生徒と一緒の写真も残っています。当時の旧制大村中の生徒は、知っていたそうです。
また、高知の土佐中・土佐高の初代校長は、大村出身で、旧制大村中学出身で、東大の哲学科卒である、三根円次郎(みねえんじろう)先輩です。
土佐高の沿革
さて、はじめての入学前補習の授業は、英語で、小川正義先生だった。小川先生は、声が大きく、東京アクセントの標準語だった。それまでの、学校で教師の方々が話す九州なまりの標準語とは発声場所が違うようで、NHKテレビの歌番組司会アナウンサーのように聞こえて、しかも大声だったために圧倒された。
この日から、十数年後、小川先生は大村高校教頭になられた。
*▼小川先生の写真
1学年上の29回卒の同窓会ホームページで小川先生の写真(最前列中央付近、ダークブルーのシャツで、左手に書類を持っておられるスーツ姿の男性・小川先生は29回卒の受け持ちだった。)
小川先生の最初の質問は、sentenceとはどういう意味か?だった。あてられたのは、N野カメラのNくんだった。N野くんは、この質問に答えることができなかった。
小川先生は、高校は中学までとは違うんだと力説された。小川先生は、「ゲンキュウ トメオキ(原級留置=落第)」が高校はあるんだと言われた。教室は静まりかえった。入学前だったが、教室の中では、高校生としてのはじめての洗礼を受けたようで、ピリピリした緊張が走っていた。
、
2003年08月01日
●大村高校合格発表・1975
1975年3月 大村高校合格発表です。30回卒業生の、入学時の合格発表です。
Uさんとは、一度だけしか話したことがありません。リリィ(私は泣いています、ベッドの上で...という歌で一世風靡した女性シンガー)のコンサートが大村で開催されたころ、その時に、お話しました。場所は大村高校の屋上でした。
Mさんは、同学年のIくんと結婚されました。
Mさんとは、小5と小6、それに中2の時に同じクラスでした。
HAさんの弟さんが寿司屋さんをオープンされたそうで、Uくんが行くそうです。
N千明さんは、合格の喜びで、うれし泣きしているようすがうかがえます。
この当時は、女性はハイソックスで、ソックタッチ(靴下が落ちないようにする液体)でくっつけていたように思います。
2003年04月04日
●合格発表直後
合格発表ボードの前で。
バックは、入学前補習授業の掲示。
普通科・家政科の補習についての掲示がされている。
右:陸上で活躍して、高2で佐世保に転校したYくん
左と真ん中:玖島出身で大村工業に進んだ二人。Yくんの友人。
2002年12月30日
●大村高校合格発表直後
二人ともに郡中の制帽をかぶっている。この当時はみんな帽子をかぶっていた。
後方、白衣の女性は、保健室の先生だったと記憶している。




