2008年02月09日
●なぜ文科系は東京の大学に進学するほうがいいのか
前任の教頭先生(30回卒1年次、1975年)は、あたらず・さわらずで何も言わない、見て見ぬふりタイプの森教頭(野母崎出身)だった。
朝、「おはようございます」と私が元気よくあいさつしても、いつも無視する人だった。翌年(1976年)長崎西高に転出された。
古門教頭は、30回卒が2年時の4月に、五島高校から大村高校に赴任された。
写真は、1976年の古門教頭先生。高校総体入場行進。長崎・松山
前任の森教頭が覇気(はき)のないタイプで、まるで毎日がお通夜のようにシーンとした人だったのに対して、古門教頭は、元気良く、ハキハキしゃっきりとした、まるで繁盛するお店で人をむかえるような人だった。
前任の教頭先生(野母崎出身)とは違い、新任の教頭先生は福岡出身だった(正確には小倉)。
ご存じのように、静かでおとなしい長崎の男とは違うタイプが、福岡では求められる。元気の良さや男ぶりの良さは長崎では求められない。古門教頭は福岡出身だったことが影響していたのだと思う。
私の母親は福岡出身だ。私は母親から商業都市である福岡市風に「挨拶は相手がする前に、自分から大声で元気よくしろ」と育てられた。だから、子供の時から、いまも、そうしている。

実は、高2の時に、こんなことがあった。誰もおぼえてはいまい。
それは、始業式の日だった。正確には高校2年(1976年)の9月1日だった。
始業式では、教頭が、学期初めの挨拶をする。普通のつまらない話のあと、「大村高校では、みんなあいさつをしない。あいさつは、ルールを守る第一歩なのだ」などという話になった。
そこまではいい。
「この中で1人だけ、毎朝、きちんと元気よくあいさつする人がいる。2年のXXくんだ。XXくんを見習って、元気よくあいさつするように」と、教頭が新学期の話をしめくくられた。
「XXくん」というのは、私の名前だった。名指しで、全校生徒の前で発表された。寝耳に水というか、青天の霹靂(せいてんのへきれき)というか、ひょうたんからコマといった感じだった。
教頭がほめてくれたのもいい。

写真は、1977年の古門教頭先生。高校総体入場行進。長崎・松山
しかし、当時の大村の方々は心が広くなかったし、嫉妬深かった(今は違うかもしれない)。狭い世界だ(これは今も同じだ)。なんであんな奴(あんな奴=つまり私のこと)が、全校生徒の前でほめられるんだ?と思われたのだろう。
それから数か月、クラスの全員が、私と口を聞かなかった。いまの子なら、いじめられたと落ち込むだろう。ただ、私はそうは考えなかった。

こんな町(大村市)、高校を卒業したらさっさと出ていくのだ、東京の大学へいくのだ、と、思っていた(そうなった)。
実は、大村高校から東京大学にすすんだ親戚(今は、工学博士で大学教授で、九州内の国立大学(法人)の学部長。ひとことで書けば、物理学者)の影響も大きかった。
大村の親類からは、文科系は田舎の国立大学ではダメだと言われていた。また、博多の親類からも、文科系で田舎の大学なら、小さな人間で終わってしまうぞ、九州や、地方の狭い世界で満足してはいけない。東京から見下ろしてこそ、本当の日本が、世界が見えてくるなどと、言われていた。(だから、10代後半から20代前半の重要な時期に、東京の大学に行かなければ、視野の狭い人間で終わってしまうぞ)、などと。
たしかに、山にのぼってみると、上から見下ろす世界と、下から見上げる世界では、見える景色が違う。上からのほうが、全体をはっきり見わたせるのだ。経験がある人も多いと思う。
社会人となり、採用の側にまわってみると、「なぜ東京の大学に入らないで田舎の大学に入って、わざわざ東京の企業に就職したがるのだろう?」ということや「社会のことをあまり知らない田舎教師からすすめられ、偏差値だけで、地方の大学に入るようにさせられているのだろうか?」という疑問もわく。
何かを求め、チャレンジ精神のある人は、みんな東京(東京や横浜出身の人はアメリカを)をめざしている。「自分の力で東京に出たんだ」という証(あかし)が、東京の大学に入ることなのだ(企業では、そう評価することもある)。
実際、10代後半から20代前半の重要な時期に、東京生活を体験したものとそうでなかったもののギャップは一生埋められない、と思う。
調べようとしないで(情報を分析しないで)、新しいことは何でも反対ばかりする教員たちのように、あなたがならないためにも(私の中学、高校時代に、そのような教員たちを見てきた経験より/もちろん、そうではない立派な先生もおられた)、情報のあふれる東京で、これからの時代に必要とされる、すばやく確実に、しかも大量の情報を、限られた時間で処理し、そして意思決定できる能力を身につけるためにも、東京に出なければ、東京の大学に入らねば、ならないのだ。
田舎ではそのような能力は身につかない。なぜなら、情報も刺激も乏しいからだ。

また、小・中・高と、一見おとなしそうだが、きびしく、気が強く、文句ばかりいうタイプの女性が長崎県(大村)には多かったように感じられたので(今は違うかもしれない)、こんな町は早く出て行かなければとも思っていた。
クラスメイトから無視された私は、わずらわしいクラスメイトとのつきあいがなくなり、楽になった。Freeだ。私はクラブをやっていたので、クラスで会話がなくともクラブで会話があった。
高校時代は、そんなに楽しいものではなかったが、写真を見ると、楽しそうだ。そんなものかもしれないなぁ。

ところで、この話には後日談がある。
高校3年(1977年)の9月1日に、教頭先生は、また、全校生徒の前で、同じ話をされた。また、私の名前が発表された。
今度は、クラスでは、誰も私を無視しなかった。というより、3年で、勉強が忙しく、みんなそれどころではなくなっていた。
いじめや無視は、ヒマだからするんだろうか?忙しければ、人を無視して遊ぶ余裕はなくなるのかもしれないなぁ。
そう思いながら、今日も、日経新聞と本をバッグにつめこみ、私は、朝の駅へと急ぐのだった。
2008年01月06日
●体育祭 1977年
写真は31回卒女子が高2時のもの。体育館側を背景にして、国道34号方面を撮影。
体育祭は3年分、動画が残っています。フィルム8ミリで撮影したものです。
私は体育祭の時、高1、高2、と2年間応援団長をしました。応援団長をしながら、写真も動画も撮影するのは、時間の切り分けが、実にやっかいなものでした。しかし、なんとか、写真も動画も撮影し、現存しています。
2007年より大村高校が採用したブロック対抗は、30年以上前の1970年代の大村市立玖島中学で実施されたが、その後、いい評判を聞いていないのだが。学年間のカベを破る目的だったのだろうが、理想は現実とは違っていた。学年や学級のカベは、一度くらいの体育祭ではなくならなかった。以前より、バラバラで、思い出に残りにくい体育祭が生み出されたように思えた。学年対抗のほうが、記憶にのこる(思い出として貴重な)体育祭だった。
過去、成功していた方式を新たに変更するにあたって、大村高校は、過去の事例を調べなかったのだろうか。それとも、何か、大きな秘策があるので、導入されたのであろうか。大村高校は具体的には開示していないようなので、何もわからないが。
とにかく、2007年にもなって、30年以上前の玖島中方式が、大村高校に導入されてしまったようだ。昔の中学校のやりかたが高校に導入された。大村高校の方々は過去の事例を調べなかったのだろうか?
当時の玖島中方式は、全学年を統合し4ブロックに分割し、Aブロック、Bブロック、Cブロック、Dブロックに分けた。2007年の大村高校は、1班、2班、3班、4班という、かなりおかしな名称のようになったようだ。また、おかしなことを何も疑ってもいないところに、何だか、問題があるようにも思えるのだが。
なぜなら、100人以上の集団を日本語で「班」というのは間違っていないだろうか(間違っている可能性が高い)。いまどき班という呼称は古すぎないだろうか?おそらく何も検討しなかったのだろう。国語の先生は意見を具申(ぐしん)しなかったのだろうか?
*日本語の場合「班」は4人から6人の集団を意味する。
おそらく、あんまり頭をを使わないで、アイディアも出さないで、換骨奪胎(かんこつだったい)もしないで、鵜呑(うの)み方式で取り入れられたのであろうか。
実際、100人以上の集団を「班(はん)」などと呼ぶ、日本語としておかしな呼称にすべきではないだろう。
大村高校の体育祭が、奇妙な4分割名称にされてしまった現実から考えれば、現在の大村高校では、なんでも軽くすませてしまう人が増えてしまったのではないかと、危惧(きぐ)されるのだ。
この写真の時代は(2006年まで)、競技も応援も学年対抗でした。30回卒は、高1の時も、高2の時も、高3の時も、応援は優勝しました。競技は高2の時に優勝しました。
このころ、高校の体育祭に親は出席しなかったと思う。私の親は3年間、体育祭には、でてこなかった。男子の場合、クラスの大半が教室に集まってヒルメシを食べていたように覚えている。「高校生にもなって、体育祭に親が顔を出すなんてチョーかっこワル」といった気持だったように覚えているが。
2006年06月21日
●長崎西高

写真は長崎西高30回卒・高校総体
長崎西高30回卒サイト管理人の方が昨年お亡くなりになった。病気だった。
入院される直前、昭和51(1976)年と昭和52(1977)年、高校総体における、長崎西高30回卒を撮影した写真が、多少ありますと、連絡をした。見本をまず、数枚を送った。そこまでだった。
デジタルカメラが普及して、カメラを誰もがいつも持ち歩くので、今では普通なのかもしれない。しかし、30年前は、そんな奴は誰もいなかった。私のような者を除いて。
なぜなら、フィルムカメラで、すべてマニュアル。ピントも絞りもシャッタースピードも。シャッターを押しただけで写るカメラが発売される前の時代だった。
だから、この時代、他校では、卒業アルバム以外の写真が少ないのだそうだ。
そんなことはどうでもいいが、私もいずれは死ぬ。同じ時代を生きた者として、長崎西高30回卒サイト管理人さんのご冥福をお祈り申し上げます。
2006年03月09日
●大村、夏の甲子園、地区大会決勝進出

大村高校野球部は弱い。一度も甲子園に出場したことがない。
しかし、かつて、地区大会決勝までいき、出場を逃したことがある。
話は、第二次大戦前だ。夏の甲子園のことだ。
現在は各県1校が代表校として出場する。実は、1970年代まで、九州から甲子園に出場できるのは、福岡から1校、長崎佐賀から1校、熊本大分から1校、鹿児島宮崎から1校の、計4校だった。
もっと前は、九州から3校だったそうだ。長崎県、佐賀県、熊本県の3県で1校のワクを競っていた時代があったそうだ。
その長崎県、佐賀県、熊本県の3県で1校の時代、つまり長崎県立中学大村玖島学館時代に、大村は決勝まで出場したのだ。
大村玖島学館の決勝での対戦相手は、熊本の済々黌(せいせいこう)だったそうだ。
この決勝戦の日、大村は大いに盛り上がったそうだ。結果は2-1か3-2だったか忘れたが1点差で負けたそうだ。当時は、TVがまだなく、ラジオだけの時代だった。
私は、この話、ひいばあさんから聞いた。
写真は1977年、大村高校野球部。バックは国道34号線。
2005年08月24日
●最後の球技大会
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高校時代最後の球技大会。高3(1977年6月)ころだったろうか。雑草がボウボウと繁茂していて、木々が元気そうなので初夏だろう。たぶんそのころだろうか。
期末テストのあとは、いつも球技大会だった。テストあとのガス抜き、あるいはフラストレーションの発散目的だったと思うが、タイミングよく、いい行事が練られていた。
この日、私のクラスは決勝に進出。写真は、試合に勝った直後で、士気が高揚していた。種目はソフトボール。単純だったが、この種の行事は重要だった。3年の球技大会参加は1学期で終了。あとは大学受験へまっしぐら。
このころ、国立大学は2校受験できた。一期校と二期校とよばれていた。足切りがなかった。
長崎大学、九州大学、熊本大学、宮崎大学、大阪大学、京都大学、東京大学などが一期校で3月上旬に試験。
佐賀大学、鹿児島大学、大分大学、九州工業大学、横浜国立大学などが二期校で3月中旬試験だった。
もし浪人したら、共通一次が始まり、その点数で足切りが始まると噂され、先生方は「できるだけ浪人するな」という進路指導をされていた。
先生方は視野がせまかったのか、ウソをついておられたのか、今となっては、わからない。大村高校のみならず、長崎県の普通科高校全体の教育方針が、地方国公立向け受験対策で、当然ながら、国公立に不可欠な数学にかなりの時間が割かれていた。
ところが、私と同じ年代で、福岡市の某公立有名校に通っていた「いとこ」に聞いたところ、長崎県と福岡県とは進路指導や受験対策がことなっていることがわかった。
地方国公立大学と、東京の私立大学では大きく出題傾向が違っているが、長崎県では国公立向けだった。選択の余地がなかった。
そこで、冬休みは3年間(夏休みは、きちんと大村高校の補習を受けた)、大村高校の補習授業は「風邪で高熱が出て動けない」との理由で休み、福岡市内にある親戚宅に泊まり込み、福岡市親不孝通りにあった予備校に通った。
私は、浪人した。共通一次は受けなかった。
文科系の大学は、東京の大学に入らねばダメなのだ。大学生の親戚から、なぜそうなのか、聞いていた。だからそうした(理由は長くなるので省略)。
そんなことを思い出した。
昔はスカートが長かった。写真を見てそう思った。
2005年02月28日
●放課後のひととき

高3の秋だと思う。亡くなってしまったO戸くん(右から二人目、郡中の生徒会長だった)も写っている。右から三番目の顔が白く修正されている人物は、この当時ワルと呼ばれた方だった。バイク通学をしていて、スピード違反でオカミの世話になったり、修学旅行に、マルボーロ(長崎名物のお菓子ではなく、アメリカ・フィリップモリス社?のタバコです)を持参してくるくらいのスモーカーだった。
当時、帽子をかぶるのがルールだったが、この人物だけは、かぶっていなかった方だ。やっぱ、校内で喫煙したり、その他の最低限のルールさえ守れない方だったし、写真に顔を出さないほうがいいだろうなぁと、顔を白く修正させていただきました。Sorry!
写真の撮影年号が1976年になっていますが、正しくは1977年です。お詫びして訂正します。
2004年10月13日
●高3時代・高校総体
高3時代
昭和52(1977)年の高校総体入場行進・長崎市にて
▼旗手はY沢くん、その後ろに古門教頭先生。
▼アメリカ・ミシガン州のハイスクールから日本の大村高校にやってきた交換留学生ポーラ・マン(Pola Mann)。身長178センチ。
ポーラ(みんな「ポーラ」と呼んでいた)は高2(2年4組)の9月から高3(3年1組)の8月まで、30回卒と同じ時間を過ごした。国語(現代国語・古文・漢文)以外は、同じ授業を受けた。クラブはバスケット部に在籍した。
ポーラの活躍で、この高校総体において、大村高校女子バスケは、ベスト8かベスト4までいったように記憶している。
いまは、ゆとり教育でまったくダメになってしまっているらしいが、このころ、日本の高校数学レベルは世界一と言われていて、高2で微分や積分を学ぶことを、ポーラは驚いていたようだ。
▼参考:
2学年上(28回卒)の交換留学生 デール・アンダートン(Fromオーストラリア)さんたち。
▼大村高校応援団
▼高3時代(1977)の内山くん(最近の内山くんの活躍はこちらです by 日本経済新聞社)
2004年06月09日
●福翁自伝
高校3年の時、選択制の必修クラブというものがあり、週に1回、授業中の1時間がそうだった。
この必修クラブで「福沢諭吉(ふくざわゆきち)の福翁自伝(ふくおうじでん)を読む会」という
講座があった。選択した生徒は、普通科1年生から3年生で10数名と、人気がなかった(人気がある講座は50人以上の生徒が集中し、教室に生徒が入りきれないものもあった)。
担当した講師は、九州大学出身で日本史の先生だった。
必修クラブ授業は、高校の授業とは違い、大学の授業「講読演習ゼミ」のような形式で、
一人ずつ順番でパラグラフを音読し、パラグラフごとに、先生が教授のように、コメントと解説を加え、最後に全員で再度、音読し、次のパラグラフに進むというものだった。
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岩波文庫:福翁自伝(ふくおうじでん) <福沢諭吉の自伝>
福沢諭吉(ふくざわ ゆきち):大分県出身、慶應大学の創始者、幕末、大阪・緒方洪庵
(おがた こうあん)が主催したオランダ語の滴塾(てきじゅく)で大村市久原出身の長与専斎
(ながよ せんさい)と同期。
ISBN4-00-331022-5
700円です。
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1年間の授業だったが、3年生は12月で終了。全ページの4割くらい残し、福翁自伝を終えた。
最後の授業で、先生は3年生に向けて、「あとは、自分の力で読みすすめてゆけ、卒業
してもっと大きく、広い世界に飛び込んでゆけ。長崎県みたいな小さな狭い世界で満足
してはダメだぞ」みたいに言われた。
福翁自伝の講座を受講し、中津(大分県)の小さな世界から、大きく広い世界へ出た福沢諭吉のことをふまえたうえで、先生の最後の言葉は説得力があった。
福翁自伝の音読のおかげで、現在も役だっていることは、文章を書くときに、福翁自伝で身に
ついた、古風で格調のあるフレーズが自然に浮かんでくること。ほかに、当時の時代背景が
浮かんでくることで、幕末から明治の歴史が理解できること、仕事で慶應出身者と話をする
場合、話を合わせるのが容易なことなど。
かなり前から「声に出して読む日本語」がブームのようだが、音読と、この先生の授業のおかげで、ずいぶん得をした。
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