2008年01月24日
●長崎東に留学していたアメリカ人と博多駅デイトス
長崎や大村の人は、知らない人となかなかうち解けないし、話もしない。
私は、知らない人でも、物怖(ものお)じしないで話すような性格なので、 大村に住んでいたころは、苦労した。大村育ちの人から見れば、私のような性格は、嫉妬の対象になるのかもしれない。
実は、英語を覚えても、閉鎖的な性格の人はちっともうまくはならない。テストの成績と性格+コミュニュケーション能力は少し違う。
関係ないことを書けば、1984年8月、大学時代、東京の新宿エリアで、迷っているアメリカ人女性を見かけた。だから、声をかけて、「そっちの方向はあぶないよ」と伝えた。
実はその人は、1983年9月から1984年7月まで、長崎東高校に留学していた人だった。ミネソタ州ミネアポリス市出身で、長崎東高のあと、マサチューセッツ州のカレッジに進学した。祖先は、ノルウェーからアメリカに渡ったのだそうだ。名前はナターシャ。
新宿で偶然、長崎東高に留学していた人と出会って話したあと、連絡先を聞かれたので、大学の学部の住所を教えた。最初は、なんと、彼女から、私の大学の学部にエアメールが届いた。
大学の事務局から呼び出しがあった。事務局で手紙を受け取った。それから、しばらく手紙をやりとりした。手紙には、(英語で)長崎での文句が少し書いてあった。やっぱり、長崎市の人も、大村の人と同じで、閉鎖的だったようだ(今はどうかは知らない)。

さて、写真は、博多駅デイトスの受付のお姉さん。少し話したあとで、「写真を撮っていいですか?」とたずねてOKの返事をもらったので、撮影した。1980年だったと思う。
予備校時代は福岡で過ごした。大村の同期の連中は、全員、九州英数学館だった。私は、水城学園だ。水城では、大村高校出身者は、理科系で気が強い女性と、私の2人だけだった。わたしは、大村の人と、つるまない。
このころは、まだ、代々木ゼミナールも河合塾も全国制覇していなかったので、福岡の予備校は、英数と水城が2大勢力だった。
実際、大村の同期の連中は、福岡の予備校に通っても、大村から抜け出すことができず、大村メンバーでつるんでいたようだ。天神や新天町で、彼らを何度もみかけた。
私は、大村より、福岡のほうが合っていた。すぐに、福岡市内の人と友だちになった。いまでも、福岡のメンバーとは会っている。
結論は、人には、それぞれふさわしい場所がある。わたしには、長崎県大村市はふさわしくなかった。そういうこと。




