2005年04月13日

●1975年4月、そして数学

q1.jpg

1975年。長崎県立大村高校に入学して、ひと月もたたないゴールデンウィーク前の4月下旬の土曜日午後。「一緒に帰らん?」と誘われて、この日は、長崎県大村市のJR大村駅そば大村バスセンター2Fの関西風お好み焼きの店・生駒(今もある)に、お好み焼きを食べに行ったと思う。


後方の黒板に注目!問題番号が400番台になっている。スタンダードはたしか1問飛ばし(偶数問だけか、奇数問だけか)に授業で解いていた。つまり、4月のひと月で200問程度を解いていたことになる。


このころ、数学は普通科で週7時間のカリキュラムが組まれていた(理数科はまだなかった)。それに補習の数学が週3時間。毎週10時間の授業と、2冊の問題集(数研出版スタンダード方式九州数学教育会の類比方式による数学)を併用し、しかも、毎日、追加問題プリント(B4サイズ1枚)が配られ、翌日までに解答しなければならなかった。また、英作文の栞と同様、毎週、習熟度テストが実施されていた。平均点以下の場合、放課後、追試が実施されていた。追試は、満点が取れるまで、何度も受けなければならなかった。


習熟度テストの追試では、夕方5時ころになると、先生が、白いハンカチで包んだ弁当箱をぶら下げて、「もう帰宅する時間が近づいている、おまえら少し真剣に勉強しろ」みたいなプレッシャーと発破(はっぱ)をかけられていた。一度、イヤな思いをしたら、もうコリゴリなので、なんとか回避すべく勉強したが、なんせ、週テストは平均点以下が居残り追試だった。そのため、私にとっては苦しい日々だった。


一度だけ、全体の平均点が18点だったとき、数学の成績が良くなく、いつも平均点ギリギリの私が94点でトップだった(範囲は、虚数i、解と係数の関係だった)。片山先生から、「妙な才能があるなぁ」と言われた。


kata1x.jpg
*答案返却(この写真は高2です)。点数順、成績がいい順番なので、ドキドキでした。

毎日、すさまじい宿題がでた。授業で、出席番号順だったり、座席順であてられて、前と後方の黒板に出て解いた。要領よく当てられそうな問題だけを解いていっても、あてられる順番が狂うことがあるため、結局、全問を自宅で解いていかないとダメだった。数学が苦手だったため、私は片山先生に怒られた。

kata2x.jpg
*旧校舎2F物理職員室前で 片山先生(写真は高2時代のものです)

また、教科書の進度が1時間に7ページだった。数学の不得意な私が、よく耐えられたものだと思う。ほんとうに苦しかったが、なんとかギリギリの点数の50点くらいで(40点未満は落第で、追試となる)乗り切っていた。このプレッシャーに耐えられない人たちは高校を中退していった。逃げてしまうと、永遠に負け犬となる。


高校時代苦しかったおかげで、大学を卒業して社会人となったあとで、無理難題のプロジェクトがまわってきても、耐えられる精神力が身についたのだと思う。


実は、いまでも年に何度か、高校時代の数学授業の夢を見てうなされる。夜中に、突然、目がさめて、「よかった。オレはずっと前に高校も卒業していたし、大学も卒業していたんだ。ああ、これは夢だったんだ」と。そして、いつもホッとして、胸をなでおろすのだった。


Posted by 管理人 at 2005年04月13日 19:01
トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://omura-highschool.net/blog/mt-tb.cgi/71