2004年11月03日
●登校と下校
1976年11月ころ 屋上より、大高坂の光景。
このころは、やっぱりハイソックスで、ソックタッチ(ソックタッチは1974年ころに全国的に流行がはじまり、2004年の現在も販売されているようだ)を使用していたのだと思う。
雨の日は天気予報で確認して、革靴(革靴はご存じの通り雨で痛むので)ではなく、スポーツシューズで登校していた。まだ、スニーカーという単語がなく、運動靴とかズック(ドイツ語)と言っていた。
革靴では、リーガルが流行で、リーガルが高そうに思えた人は、リーガルによく似たデザインでリーガルより格段に価格が安かったハルタを購入していたと思う。
アメリカンなスニーカーブームがやってくるのが、この6年後の1982年ころで、コンバースだった。
登校
▼左の自転車の方は31回卒
前はHさん、後ろは、Sさん 2人ともバス通

▼前2人の女性はクラスメイト、左の女性は、その後、東京の大学に進学し大学院博士課程を修了したそうだ。

▼下校
女性は、クラスメイト。MさんとHさん
男性は、K田くんとOくんだったと思う。

さて。
佐賀の玄海原発が未完成で、まだ九州電力大村発電所がフル稼働していたころ、発電所勤務の方々の社宅、九電社宅が宮小路(みやしょうじ)にあった。中学校で言えば、郡中の校区だ。
(親が)自衛隊の方々とちがって(親が)九電の方々は、どこか大村を小馬鹿にしていて、一部の人を除いて、なかなか大村になじもうとしない人が多かったように感じられた。実際、九州各地を転校していて、転勤族と呼ばれる、俗に言う「流れ者」の方々だった。
親がバカにしていれば、子供は親にならって、親と同じパフォーマンスをとる。生徒が、「大村なんてイヤだ、本当は大村高校なんて行きたくないんだ」みたいな言動は、九電の方々の親たちがそう考えていたのだろう。大村にすっかりとけ込んでいた自衛隊の方々と対照的だった。
九電社宅チームのおかげで、学校のモラルが低下していた部分があったように思えた。ただ、入試前に、学校も、当時は、受験志願者に向けて、自らどんな学校か十分な情報を発信していない時代だったし、生徒も高校を選択して受験できなかったことが原因だろう。
他に、対馬、壱岐、五島(南松浦)、東彼杵郡や北高来郡から越境で大村高校に入学した方々から、「本当は、大村高校ではない高校に入学したかった」と陰口がさかんに聞こえた。モラルを下げていたのはそういう生徒たちだったのかもしれない。
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