2004年11月04日
●見えていなかったこと Vol.1
気まぐれ連載「あのころ見えていなかったこと」
~大村高校入学から福岡での予備校、東京の大学合格まで~
Vol.1 入学前
高校に合格が決まったのもつかの間、すぐに入学前補習が始まった。 春休みの1週間(3月22日から3月29日)、1日3時間(8時30分から11時50分)、英語・数学・国語の授業だった。
▼合格直後、入学前補習の掲示板

入学前補習の席順は、入試の受験番号順だった。幼稚園から、小中と1度も同じクラスになったことがない縁のなかった連中と、はじめて同じ空気の中で授業を受けた。
私の前席が中3時のクラスメイトUくんで、左隣の席は、同じクラスになったことがなかった本郷くん(大村高校生物科の名物教師だった本郷先生の長男)だった。本郷くんは、休み時間に、貞松時計店で購入したという、セイコーのアドバンという腕時計を自慢していた。オレンジ色の文字盤だった。
合格してわかったが、私の中3のクラスでは、市内中学(このころは4校。玖島、西大村、郡、萱瀬)最多の人数が大村高校に合格していた(普通科12名、家政科4名の合格)。不合格になったのは1名だけだった。中3の担任も誇らしかったと思う。玖島中(当時1学年9クラス)の他クラスでは、普通科4名しか合格しなかった最低クラスもあったそうだ。
このころ、青雲学園が1期生だった。実は、大村高校に不合格だった人たちが青雲に進学していた(長崎・東西南北4校や佐世保・北南西3校でも事情は同じだったそうだ)。最初は、中3の冬、突然、青雲学園という学校ができるという噂が流れた。大村市内の開業医で、中3や小6の子弟のいる家に青雲学園の担当者が訪問してきて、入学の勧誘をされたとの話が市内をかけめぐっていた。胡散(うさん)くさい学校じゃないか?誰がどんな理由で学校を設立したのかわからないとの話しだった。
また、青雲という高校名は、当時、人気のあった巨人の星というマンガに登場する高校名と同じで、得体(えたい)のしれない学校のように写っていた。今でも、長崎の青雲は正体がよくわからない学校だ、と首都圏では思われているかもしれない。たとえば、鹿児島ラサールや高知の土佐中・土佐高、ほかにトヨタ自動車とJR東海が設立した海陽中・高ならば、どんな人がどんな理念で学校を設立したのかが明確に伝わってくるのだが、青雲は設立当初から、親やどころか受験生にもさっぱり伝わっていなかった。まぁ、首都圏には私立の中高一貫校は男女ともに数多くあるので、わざわざ興味を持つ人は少ないと思う。
「長崎の青雲は正体がよくわからない学校だ」と何度も耳にするので、長崎・青雲のホームページを拝見して確認してみると、確かに詳細がはっきりわからないのです(2004年11月現在)。もしかしたら、同窓会が学校の不備を補うかたちでホームページを作成しているかと思い、調べてみたが、青雲学園の同窓会は独立したホームページがないようで、はっきりしたことがわからないままでした。
蛇足なのですが、海陽中・高の設立者で、トヨタ自動車の豊田章一郎氏は、第二次大戦前の一時期、大村・片町に住んでおられました。大村高校の前身・旧制大村中学とつながりもあり、旧制大村中の記録にも出ており、旧制大村中の生徒と一緒の写真も残っています。当時の旧制大村中の生徒は、知っていたそうです。
また、高知の土佐中・土佐高の初代校長は、大村出身で、旧制大村中学出身で、東大の哲学科卒である、三根円次郎(みねえんじろう)先輩です。
土佐高の沿革
さて、はじめての入学前補習の授業は、英語で、小川正義先生だった。小川先生は、声が大きく、東京アクセントの標準語だった。それまでの、学校で教師の方々が話す九州なまりの標準語とは発声場所が違うようで、NHKテレビの歌番組司会アナウンサーのように聞こえて、しかも大声だったために圧倒された。
この日から、十数年後、小川先生は大村高校教頭になられた。
*▼小川先生の写真
1学年上の29回卒の同窓会ホームページで小川先生の写真(最前列中央付近、ダークブルーのシャツで、左手に書類を持っておられるスーツ姿の男性・小川先生は29回卒の受け持ちだった。)
小川先生の最初の質問は、sentenceとはどういう意味か?だった。あてられたのは、N野カメラのNくんだった。N野くんは、この質問に答えることができなかった。
小川先生は、高校は中学までとは違うんだと力説された。小川先生は、「ゲンキュウ トメオキ(原級留置=落第)」が高校はあるんだと言われた。教室は静まりかえった。入学前だったが、教室の中では、高校生としてのはじめての洗礼を受けたようで、ピリピリした緊張が走っていた。
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