2008年01月16日
●チャーリーズ・エンジェルと大村高校
NHKでチャーリーズエンジェルが再放送されている。1970年代後半から1980年代に放送されて、流行した。アメリカ版の浜崎あゆみといった感じだろうか。ファラ・フォーセットの笑顔と大げさなヘアスタイルが印象的だった。
さて、私は、録画してあった、チャーリーズエンジェルを視聴していた。そこに家族がやってきた。
オトコなら、気が付かない点を、オンナの視点から指摘された。まったく気がつかなかった。思い出したのは、高校2年の時に大村高校に留学していたポーラ・マンという人のことだ。
具体的に書く。
ポーラは、体操服の時に、ニプレスをつけていなかった。ある男子の指摘で、大村高校男子生徒の間では、話題になった。まぁ、刺激の少ない九州の片田舎にある高校の17才なのだから。
つまり、体操服の上から、乳首がくっきりとわかっていたのだ。当時の男子の間では、それが大きな話題となっていた。日本人の女子生徒は、ニプレスをするのが常識だったようだから。
ポーラ
チャーリーズエンジェルは、まじめな番組で、R18などではない。健全な昼間の番組。エンジェル全員が、米国のポリス・アカデミー出身の警察官だった設定となっている。あるシーンで、ファラ・フォーセットがシャツ姿で、乳首がくっきりわかるシーンが何度かあらわれた。
何にも気がつかなかったが、家族から指摘された。
結論は、この当時(70年代)のアメリカの10代、20代女性は、ニプレスなどはしないのが習慣だったのではなかったのだろうか。韓国人・中国人がマネをする、日本風のおしゃれ。アメリカ人は、おしゃれのセンスを磨くより、普段はくつろぐ(comfortable)かっこうをする人が多いので、ニプレスなどはしなかったのではないだろうか?
そんなわけで、チャーリーズエンジェルと大村高校が、ファラ・フォーセットのニプレスなしのシャツ姿で結びついたのでした。
チャーリーズエンジェル ファンサイト
*エンジェルを束ねるマネージャーのボスレーは、お亡くなりなったようです。
ファラ・フォーセットの魅力
2008年01月07日
●あなたは、もう、そこにはいない。私も。
野岳湖です。4月の歓迎遠足です。高2です。上記はOくんです。今は、世界で有名な多国籍企業の研究者だそうです。
もてていたFくん。真ん中の白シャツの男子。毎年、バレンタインデーでは、食べきれないくらいのチョコをもらっていたようだ。
この時、私は、途中まで写真撮影をして、フォークダンスに参加した。記録を残すことに使命感があったわけではないが、写真同好会を写真部に昇格させるためには、実績をあげておきたかったのかもしれない。この年の秋、写真同好会が写真部に昇格となった。
東京と九州ではもてる男の基準が違うようだ。詳しく書くと長くなる。九州でもてる男の条件である「男らしさ」。これが東京では、なかなか通用しないのだ。幸い、私は、九州より東京のほうがフィットしていたが。大阪や京都も、また、違うようだ。
参考として、市川猿之助(いちかわえんのすけ)のスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」で、九州人である熊襲(クマソ)の描かれ方を見れば、わかる人にはわかる(スーパー歌舞伎とは?)。
当時、家政科は2クラスあった。理数科はなく、普通科は7クラス。7クラスのうち、1クラスが男子クラスだった。
さて、この写真は1976年です。勘違(かんちが)いしないでください。写真では15才か16才ですが、撮影して31年もたっているんです。かわいい女子も、かっこいい男子も、面白い人も、もう、そこにはいません。
2007年11月01日
●再びスタートいたしました。
写真は高2時代の歓迎遠足。
大村高校30回卒ホームページを、再開しました。頻度はスローペースになりそうです。しかし、高校時代に撮影した写真が7000枚ほどあります。動画もあります。
小さいながらも使命感を出しつつ、再スタートします。
同窓会ブログ2.0のほうも、まとめますので、お待ちください。
よろしく。
2006年06月23日
●テニス部 1976


運動神経の良さは、きっと遺伝するのだろう。
写真の女性は31回卒。テニス部だったが、運動神経がいい人で、大村高校マラソン大会(当時、男子10キロ、女子5キロ)でも、2年間、彼女はトップ3。普段からよく練習していたようで、グランドを、走っている姿を見かけていた。
彼女のみならず、彼女のお兄さんも小学校時代から運動会で活躍する人だった。お兄さんは、大村高校から慶應大学にすすまれた。
この写真から30年がたった。
彼女の甥御さんお2人は、近年、高校総体で、長崎県代表となっていた。種目はテニスではなかった。また、出身高校は、2人ともに大村高校ではなかったが。
写真を見て、夏、大村高校ボート部の艇庫から、大村小学校前の交差点まで「大村ケイリン」などと言って、自転車で競争したことを思い出した。競争の結果は、彼女の勝ちだった。そんなことがあった。遠い昔の話だ。
写真後方の石垣は、大高坂。
2006年03月27日
●柔道部 1976
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柔道部 1976年6月
手前の顔が見えない人が、北海道大学医学部に進学した人。にらみつけている、目つきがあまり良くない人は、鹿児島大学工学部だったろうか。
この年、格技場が完成したばかりで、新しかった。
2006年02月06日
●がんばっていきまっしょい!(2)
写真は大村湾の寺島沖にて。
2年男子クルー艇から、1年生クルー艇を撮影。
大村高校女子ボート部は、映画版「がんばっていきまっしょい」の松山東高(実在)と同じ1976年に、長い眠り(休部)から目をさました。そして復活。
男子ボート部の復活も、1976年だった。
どうしてボート部が復活したのか?の話はこちらです。
当初の女子ボート部は、部員が1年生4名しかおらず、試合に出場できなかったようだ。写真では、1名が男子に交じって、コックスをやっている。まるで、TV版「がんばっていきまっしょい」みたいじゃないか。
男子ボート部員は、2年生が6名、1年生が8名くらいだった。
私はボート部員ではなかった。しかし、2年の部員6名中2名が、毎週の数学のテスト前日に(勉強のため)練習に参加しなかった。そのため、部員ではない私がコックス(「キャッチ!ロー!」というかけ声と共にラダー板を操作して船の針路を舵でとる役目)をやったことがある。にせコックス。
コックスをやりながら、写真など撮っていて、のんきなものだった。
コックスだったのは、私の体重が軽かったため。また、家が艇庫(大村高校ボート部は史跡である御船蔵跡に艇庫がある)に近かった。
実家からスイカを持っていって、大村湾の沖合で、メンバーと共にスイカをボートで食べたことがある。
また、一度、ボートが転覆したこともある。
カメラが海に落ちても良いように、ジップロックのようなビニール袋を持参していたため、転覆して海に落ちたときも、カメラは助かった。
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2006年02月05日
●がんばっていきまっしょい!(1)
遠方より2艇は大村園芸高(現、大村城南高)クルー。
手前の1艇が大村高校1年生クルー、そして私が乗艇しているのが(写真には写っていない)、大村高校2年生艇。
写真からもわかる。こんなことで、大村園芸に勝てるわけがない。きっちりとトレーニングをこなし、オールが揃っていた大村園芸。
むちゃくちゃな練習だった大村高校クルー(当時)。大村高校1年生艇には5人乗り(コーチを入れても6人まで)のボートに7人も乗っている。
勝てなかった理由がわかる。練習時点で、すでに大村園芸に負けていた。
ただ、ゆるい練習のおかげで、写真の撮影ができたので、たくさんの記録が残った。
この当時のボートはナックル艇といい、1人で1本のオールを漕ぐ。スピードは出ないものの、艇が安定していた。
現在は、シェル艇といい、1人で2本のオールを漕ぐ。スピードは出るが、艇が安定しないことがあるのだそうだ。*私は、ナックルに乗ったことはあるが、シェルには乗ったことがないので「だそうだ」とした。
このころの社会
▲上写真を撮影した2週間後くらいに、日本全体を震撼させた「ベレンコ」事件がおこった。北海道に、旧ソビエト連邦から低空で戦闘機が侵入し、函館空港に着陸した。戦闘機のパイロットは、ベレンコ中尉と言った。ベレンコ中尉事件1、2、3
それから、逃げてきたやつという意味で、「ベレンコ」という言葉ができた。今は死語になっている。しかし、映画版「がんばっていきまっしょい」で使用されていた。
映画版

原作本(入手可能)
| がんばっていきまっしょい | |
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2005年11月22日
2005年09月24日
●暑く熱かった日
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上の写真は、こちらの記事の続きです。
フィルムを、コダックのトライX(ISO400)にしていた。そのため、海の強力な光で、絞りF16、シャッタースピード1000分の1秒でシャッターを切らざるを得なかった。カメラは、ミノルタSRT101、レンズはロッコール55ミリ。
2005年09月04日
●1年生の仕事
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本文
ボートの清掃は1年生の仕事だった。たしか、あのころ当番表があったような...
数日前、当ブログを見た感想ということで、発足したばかりだった大村高校ボート部初代キャプテン(同期、30回卒)からメールをいただいた。
ボート部の正式部員でもない拙者を乗艇させてくれたのは、キャプテンのおかげ。当時のボート部の記録が残ったのは、キャプテンの寛大な気持によるところが大きいと思っています。感謝。
初代ボート部キャプテンのエピソードとしては、よくハダシで大村公園をマラソンしておられました。夏は、暑さで道路のアスファルトが猛烈に熱せられているのに、飛び跳ねるようにして「あつか!あつか!」と言いながら、がんばっておられました。





これぞ青春!!
